・・・ と翁が呼ぶと、栗鼠よ、栗鼠よ、古栗鼠の小栗鼠が、樹の根の、黒檀のごとくに光沢あって、木目は、蘭を浮彫にしたようなのを、前脚で抱えて、ひょんと出た。 袖近く、あわれや、片手の甲の上に、額を押伏せた赤沼の小さな主は、その目を上ぐるとひ・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ 突然明らかな光線が室に射したと思うと、扉のところに、西洋蝋燭を持った一人の男の姿が浮き彫りのように顕われた。その顔だ。肥った口髭のある酒保の顔だ。けれどその顔にはにこにこしたさっきの愛嬌はなく、まじめな蒼い暗い色が上っていた。黙って室・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・まっ白な、あのさっきの北の十字架のように光る鷺のからだが、十ばかり、少しひらべったくなって、黒い脚をちぢめて、浮彫のようにならんでいたのです。「眼をつぶってるね。」カムパネルラは、指でそっと、鷺の三日月がたの白い瞑った眼にさわりました。・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・左官屋といっても、ドイツではただ壁をぬるばかりが仕事ではなくて、煉瓦を積んで家を建てる仕事や、その家々の装飾の浮彫石膏細工をつくるという風な美術的技量のいることも、やはり左官の職分にこめていたものらしく思われる。 カールのそのようなはっ・・・ 宮本百合子 「ケーテ・コルヴィッツの画業」
・・・ン・ミニアトの丘に立ったミケルアンジェロが、亡命者としてローマに止まり、人々をその悲痛さで撃つばかりのピエタを作りながら、九十年の生涯を終る有様は、波瀾に波瀾を重ねるフィレンツェ市の推移とともに見事な浮彫のように書かれている。 通俗には・・・ 宮本百合子 「現代の心をこめて」
・・・大理石の浮彫のその彫像は、五月の若葉のかげにまことに印象深かった。 モスクワの街々にプーシュキンやオストロフスキー、グリボエードフなど文学者の記念像が立っていることは、ひろく知られている。日本の、どの街に、どんな音楽家の像が立てられてい・・・ 宮本百合子 「行為の価値」
・・・大変すなおに、描く対象を浮彫りにしてゆけそうな心持です。或自然な、柔軟な突こみがされそうな感じで、大変、大変うれしい。満を持し、いそがず迫ってゆく、この感じ。今度の仕事の準備中ふと「戦争と平和」をよみかえしました。もと一度、或ところは二度三・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・ ルネッサンスの表は、華麗豪華な厚肉浮彫の歴史であるが、その陰の部分には封建性が濃くのこっていた。例えばレオナルド・ダ・ヴィンチのモナ・リザはどういう笑いを今日にのこしているだろうか。モナ・リザの微笑は、それが描かれた時代から謎のほほ笑・・・ 宮本百合子 「女性の歴史」
・・・群像の浮彫に、深い明暗があるとおり、立体的に把えられるべきものだが、「わが胸の底のここには」は、いわば鋳ものの裏の方からそのへこみばかりを辿って人間性のもり上りを見てゆこうとしているような作品に思えます。その作品の第一回の三分の一ぐらいは、・・・ 宮本百合子 「一九四六年の文壇」
・・・ 大観門の左右にあった、高さ凡そ二尺二三寸の下馬じるしを意味する一対の石の浮彫も目に遺った。この門の前、石欄のところに、慈航燈が在る。高く櫓形に石を組みあげた上に、四本の支えで燈籠形の頂がつけられて居る。恐らく昔、唐船入津の時節、或は毎・・・ 宮本百合子 「長崎の一瞥」
出典:青空文庫