・・・ 青年は、赤い旗が、黄昏の海に、消えるのを見送っていました。まったく見えなくなってから、彼はがけからおりたのであります。砂の上に、ただ一つ、黙って置かれている、小さな箱の方に向かって歩きました。小さな黒い箱は、すぐ近くになりました。この・・・ 小川未明 「希望」
・・・中には、いろいろのことをしゃべりながら、いつか消えるように、銭もやらずに去ってしまったものもありました。 つつがなく、やがて、その日も暮れようとしていました。海の上の空を、いぶし銀のように彩って、西に傾いた夕日は赤く見えていました。人々・・・ 小川未明 「港に着いた黒んぼ」
・・・ 不憫な子よ、お前の三十五年の生涯だって結局闇から闇に彷徨していたにすぎないんだが、私の年まで活き延びたって、やっぱし同じことで、闇から闇に消えるまでのことだ。妄想未練を棄てて一直線に私のところへ来い。その醜態は何事だ!」父は暗い空の上から・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・ 薄明りの平野のなかへ、星水母ほどに光っては消える遠い市の花火。海と雲と平野のパノラマがいかにも美しいものに思えた。「花は」「Flora.」 たしかに「Flower.」とは言わなかった。 その子供といい、そのパノラマとい・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・ 少女の面を絶えず漣さざなみのように起こっては消える微笑を眺めながら堯はそう思った。彼女が鼻をかむようにして拭きとっているのは何か。灰を落としたストーヴのように、そんなとき彼女の顔には一時鮮かな血がのぼった。 自身の疲労とともにだん・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・然し今でも真夜中にふと眼を醒ますと酒も大略醒めていて、眼の先を児を背負ったお政がぐるぐる廻って遠くなり近くなり遂に暗の中に消えるようなことが時々ある。然し別に可怕しくもない。お政も今は横顔だけ自分に見せるばかり。思うに遠からず彼方向いて去っ・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・ 二階の女の姿が消えると間もなく、下の雨戸を開ける音がゴトゴトして、建付の曲んだ戸が漸と開いた。「オヤ好い月だね、田川さんお上がんなさいよ」という女は今年十九、歳には少し老けて見ゆる方なるがすらりとした姿の、気高い顔つき、髪は束髪に・・・ 国木田独歩 「二少女」
・・・ 雪が消えると、どこまで行っても変化のない枯野が肌を現わして来た。馬や牛の群が吼えたり、うめいたりしながら、徘徊しだした。やがて、路傍の草が青い芽を吹きだした。と、向うの草原にも、こちらの丘にも、処々、青い草がちら/\しだした。一週間ほ・・・ 黒島伝治 「雪のシベリア」
・・・と剽軽に返事して、老人はそそくさ着物を着込んで、消えるように居なくなってしまいました。佐吉さんは急に大声出して笑い、「江島のお父さんですよ。江島を可愛くって仕様が無いんですよ。へえ、と言いましたね。」 やがてビイルが届き、様々の料理・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・その八畳の客間の隅に、消えるように小さく坐って、皆の談論をかしこまって聞いている男が、男爵である。頗るぱっとしない。五尺二、三寸の小柄の男で、しかも痩せている。つくづくその顔を眺めてみても、別段これという顔でない。浅黒く油光りして、顎の鬚が・・・ 太宰治 「花燭」
出典:青空文庫