・・・ 彼の視野のなかで消散したり凝聚したりしていた風景は、ある瞬間それが実に親しい風景だったかのように、またある瞬間は全く未知の風景のように見えはじめる。そしてある瞬間が過ぎた。――喬にはもう、どこまでが彼の想念であり、どこからが深夜の町で・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・そう覚悟をきめますと、それまで内心、うじゃうじゃ悩んでいたもの、すべてが消散して、苦しさも、わびしさも、遠くへ去って、私は、家の仕事のかたわら、洋裁の稽古にはげみ、少しずつご近所の子供さんの洋服の注文なぞも引き受けてみるようになって、将来の・・・ 太宰治 「皮膚と心」
・・・今まで注意を集注していた研究事項の内容がひとかたまりになって頭の中にへばりついたようなぐあいになってそれがなかなか消散しない。用がすんだら弛緩してもいいはずの緊張が強直の状態になってそれが夜までも持続して安眠を妨げるようなことがおりおりある・・・ 寺田寅彦 「映画と生理」
・・・大地震が襲来して数万の生霊が消散した後にその地震が当然来るはずであった事が論ぜられたりするのは事実である。 しかし必ずしもそうではないようである。学者がその仕事を「仕上げる」には長い月日を要するのは普通であるが、仕事をつかまえ、「仕留め・・・ 寺田寅彦 「空想日録」
・・・おもしろいことには、噴出の始まったころは火山の頂をおおっていた雲がまもなく消散して山頂がはっきり見えて来たそうである。偶然の一致かもしれないが爆発の影響とも考えられないことはない。今後注意すべき現象の一つであろう。 グリーンホテルではこ・・・ 寺田寅彦 「小爆発二件」
・・・明るい銀座の灯が暗い空想を消散させた。 紫色のスウィートピーを囲んだ見合いらしいはなやかな晩餐の一団と、亀井戸への道を聞いた寒そうな父子との偶然な対照的な取り合わせが、こんな空想を生む機縁になったのかもしれない。丸の内の夜霧がさらにその・・・ 寺田寅彦 「蒸発皿」
・・・これらの場合にはそのしびれた脚や腕の根元に近いところに着物のひだで圧迫された痕跡が赤く印銘されているのでそこを引っかき摩擦すればしびれはすぐに消散するのである。病気にもこんな風に自覚症状の所在とその原因の所在とがちがうのがあるらしい。 ・・・ 寺田寅彦 「猫の穴掘り」
・・・の探究者に最も必要な心持ちをすべての人からだんだんに消散させようとするような傾向のあるのはいかんともしがたい。もっとも大概の人間には真に対する潔癖はあるから、そういう不正確な記事はたまたまその潔癖を刺激してかえってそれを亢進させるような効果・・・ 寺田寅彦 「一つの思考実験」
・・・る時、冷却せる雨水の注射に因って、一大破裂を来たしたかと想う雷鳴は、ぱりぱりと乾燥した音響を無辺際に伝いて、軈て其玻璃器の大破片が落下したかと思われる音響が、ずしんと大地をゆるがして更にどろどろと遠く消散する。雨は飛散する玻璃の粉末の如く空・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ 余輩常に思うに、今の諸華族が様々の仕組を設けて様々のことに財を費し、様々の憂を憂て様々の奇策妙計を運らさんよりも、むしろその財の未だ空しく消散せざるに当て、早く銘々の旧藩地に学校を立てなば、数年の後は間接の功を奏して、華族の私のために・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
出典:青空文庫