・・・その無邪気も、光明も希望も、快活も、やがて奪い去られてしまって、疲れた人として、街頭に突き出される日の、そう遠い未来でないことを感ずることから、涙ぐむのであった。 人間性を信じ、人間に対して絶望をしない私達もいかんともし難い桎梏の前に、・・・ 小川未明 「人間否定か社会肯定か」
・・・気になり、今では鍬を手にして田園の自然を楽しむ身であるが、四年の月日もむなしく過ぎて行った、これからの自分は新しい家にいて新しい生活を始めねばならない、時には自分は土を相手に戦いながら父のことを思って涙ぐむことがあるとしたところもあり、その・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・私は再び涙ぐむのを覚えた。あの涙は何だろう。憎悪の涙か、恐怖の涙か。いやいや、ひょっとしたら女房への不憫さの涙であったかも知れないね。とにかくこれでわかった。あれはそんな女だ。いつでも冷たく忍従して、そのくせ、やるとなったら、世間を顧慮せず・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・事のことがらを申し述べて、そうして、四週間に一度ずつ、下女のように、ごみっぽい字で、二、三行かいたお葉書いただき、アルバムのようなものに貼って、来る人、来る人に、たいへんのはしゃぎかたで見せて、私は、涙ぐむことさえあります。ときどきは寝てか・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・ 一太は母親が、突かかるような口調で、「今もこれが心配して、母ちゃん大丈夫って涙ぐむんでございますよ」と云っているのを聞いた。一太はそんなことを訊かなかったし、涙ぐみなんぞしなかった。それは一太が知っている。けれども、一太はもう・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・その刹那に、自分は、狭い部屋に窮屈そうに横坐りに坐って、日本語は少し役に立つが、文字と来たら、怪物のようにむずかしいと、ぎごちなく話した彼の姿や顔を、涙ぐむ程、はっきり思い起した。―― 宮本百合子 「思い出すこと」
・・・ 四辺には灰色と歎いと怨がみちて居る―― けれ共私は―― ひややかにがんこな夜はせまって宇宙は涙ぐむ――けれ共私は―― 感謝すべき幸福と力をもつ私は小おどりして歌をうたう事が出来る。「しじまにもだせる、――しおらしきもの・・・ 宮本百合子 「小鳥の如き我は」
・・・丁度親が、おそく歩きはじめたわが子のよちよち姿を見て、丈夫な子を持った親は知らないよろこびに涙ぐむように、日本の善良な人民のこころは、今になって、どうやらわれわれと大してちがったものでもなく生きるようになった方々、に、身分が高いだけ気の毒な・・・ 宮本百合子 「戦争はわたしたちからすべてを奪う」
・・・ふだん其等の人々の書いていらっしゃる言葉づかいと、何かちがって受け身な言葉づかいで、妙に襷をかけて膝をついたり、旗をヒラヒラやって涙ぐむのが、慰めの定型のようでもある。岡本かの子さんは、近頃一貫してああいう感情表現をしていられるが、村や店先・・・ 宮本百合子 「身ぶりならぬ慰めを」
・・・ある人はいかにも恐縮したようなそぶりをしました。ある人は涙ぐむように見えました。彼はこの瞬間にじじいの霊を中に置いてこれらの人々の心と思いがけぬ密接な交通をしているのを感じました。実際彼も涙する心持ちで、じじいを葬ってくれた人々に、――とい・・・ 和辻哲郎 「土下座」
出典:青空文庫