・・・夕方浴後の涼風を求めて神田の街路をそぞろ歩きするたびにはこの「初恋」の少女の姿を物色する五十四歳の自分を発見して微笑する。そうしてウェルズの短編「壁の扉」の幻覚を思い出しながら、この次にいついかなる思いもかけぬ時と場所で再びこの童女像にめぐ・・・ 寺田寅彦 「青衣童女像」
・・・どうしても乗れなくて乗りそこねた数人の不幸な人たちは、三十秒も待った後に、あとから来た車の座席にゆっくり腰をかけて、たとえば暑さの日ならば、明け放った窓から吹き入る涼風に目を細くしながら、遠慮なく足を延ばして乗って行くのである。そうして目的・・・ 寺田寅彦 「電車の混雑について」
・・・その代りに現れる夏の夕べの涼風は実に帝都随一の名物であると思われるのに、それを自慢する江戸子は少ないようである。東京で夕凪の起る日は大抵異常な天候の場合で、その意味で例外である。高知や広島で夕風が例外であると同様である。 どうして高知や・・・ 寺田寅彦 「夕凪と夕風」
・・・この、それ自身にははなはだ平凡な光景を思い出すと、いつでも涼風が胸に満ちるような気がするのである。なぜだかわからない。こんな平凡な景色の記憶がこんなに鮮明に残っているには、何かわけがあったに相違ないが、そのわけはもう詮索する手づるがなくなっ・・・ 寺田寅彦 「涼味数題」
・・・ メーツは、ブリッジで、涼風に吹かれながら、ソーファーに眠っていたが、起き上って来て、「どうしたんだ」「左舷に燈台が見えますが」「又、一時間損をしたな」と、メーツは答えて、コムパスを力一杯、蹴飛ばした。 コンパスは、グル・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・色彩ある生活の背景として、棚の葡萄は大きな美しい葉を房々と縁側近くまで垂らして涼風に揺れた。真夏の夕立の後の虹、これは生活の虹と云いたい光景だ。 由子は、独りで奥の広間にいた。開け放した縁側から、遠くの山々や、山々の上の空の雲が輝いてい・・・ 宮本百合子 「毛の指環」
・・・ もう涼風が立ってからこのようなものを送るのを御免なさい。私も秋になってからもし事情が許したら少し休養して来るつもりだから。二人のところに、今年の夏の休暇は時おくれなのです。 お体は朝夕しのぎよくなりましたか? 食欲はお出になります・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・ 暑い日がやや沈みかけて、涼風立つ頃、今まで只一色大海の様に白い泡をたぎらせて居た空はにわかに一変する。 細かに細かに千絶れた雲の一つ一つが夕映の光を真面に浴びて、紅に紫に青に輝き、その中に、黄金、白銀の糸をさえまじえて、思いもかけ・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・ 頭に鍔広の帽子を被って、背中に山や沼を吹き越して来る涼風を受けながら、調子付いてショキリショキリと木鋏を動して居ると、誰か彼方の畑道を廻って来た人がある。 角まで来て日傘を畳んだのを見ると、近くに住んで居て、よく茶飲話をしに来るお・・・ 宮本百合子 「麦畑」
出典:青空文庫