・・・牧野はいつまでも、その景気を保っていられなかった。犬は彼等が床へはいると、古襖一重隔てた向うに、何度も悲しそうな声を立てた。のみならずしまいにはその襖へ、がりがり前足の爪をかけた。牧野は深夜のランプの光に、妙な苦笑を浮べながら、とうとうお蓮・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・僕は或風のない深夜、僕の養母と人力車に乗り、本所から芝まで駈けつけて行った。僕はまだ今日でも襟巻と云うものを用いたことはない。が、特にこの夜だけは南画の山水か何かを描いた、薄い絹の手巾をまきつけていたことを覚えている。それからその手巾には「・・・ 芥川竜之介 「点鬼簿」
・・・ 深夜の沈黙は私を厳粛にする。私の前には机を隔ててお前たちの母上が坐っているようにさえ思う。その母上の愛は遺書にあるようにお前たちを護らずにはいないだろう。よく眠れ。不可思議な時というものの作用にお前たちを打任してよく眠れ。そうして明日・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・このあたりにても深夜に女の叫声を聞くことは、珍しからず。佐々木氏の祖父の弟、白望に茸を採りに行きて宿りし夜、谷を隔てたるあなたの大なる森林の前を横ぎりて女の走り行くを見たり。中空を走る様に思われたり。待てちゃアと二声ばかり呼ばりたるを聞・・・ 泉鏡花 「遠野の奇聞」
・・・ お貞は、深夜幽霊の名を聞きて、ちりけもとより寒さを感じつ。身震いしながら、少しく居寄りて、燈心の火を掻立てたり。「そんなに身体を弱らせてどうしようという了簡なんか。うむ、お貞。」 根深く問うに包みおおせず、お貞はいとも小さき声・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
・・・ 階子段に足踏して、「鷭だよ、鷭だよ、お次の鷭だよ、晩の鷭だよ、月の鷭だよ、深夜の鷭だよ、トンと打つけてトントントンとサ、おっとそいつは水鶏だ、水鶏だ、トントントトン。」と下りて行く。 あとは、しばらく、隣座敷に、火鉢があるまい・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・ 道々考えるともなく、自分の今日の奮闘はわれながら意想外であったと思うにつけ、深夜十二時あえて見る人もないが、わがこの容態はどうだ。腐った下の帯に乳鑵二箇を負ひ三箇のバケツを片手に捧げ片手に牛を牽いている。臍も脛も出ずるがままに隠しもせ・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・ 内廊下を突抜け、外の縁側を右へ曲り、行止りから左へ三尺許りの渡板を渡って、庭の片隅な離れの座敷へくる。深夜では何も判らんけれど、昨年一昨年と二度ともここへ置かれたのだから、来て見ると何となくなつかしい。平生は戸も明けずに置くのか、空気・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・或る晩、深夜に偶と眼が覚めて寝つかれないので、何心なく窓をあけて見ると、鴎外の書斎の裏窓はまだポッカリと明るかった。「先生マダ起きているな、」と眺めていると、その中にプッと消えた。急いで時計を見ると払暁の四時だった。「これじゃアとても競争が・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・が、近頃の郵便局は深夜配達をしてくれる程親切ではない。してみれば押込強盗かも知れない。この界隈はまだ追剥や強盗の噂も聴かないが、年の暮と共に到頭やって来たのだろうか。そう思いながら、足袋のコハゼを外したままの恰好で、玄関へ降りて行った。・・・ 織田作之助 「世相」
出典:青空文庫