・・・さっき見た時にはその灯はついていなかった筈だがとそっと水を浴びた想いに青く濡れた途端、その灯のついた深夜の教室に誰かが蠢いているように思った。いきなり窓がひらいてその灯がぬっと顔を出す。あっと声をのんだ。灯と思ったのは真赤な舌なのだ。いや火・・・ 織田作之助 「道」
・・・ 新聞記者なら「深夜の怪事」とでも見出をつけるところだろうが、しかしこの事件は大阪のどこの新聞にも載らなかった。 たまたまその日がメーデーだったので、新聞はその方に多くのスペースを割かねばならず、大阪の片隅に起ったそんな出来事なぞ、・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・鎖の軋る音が、ギイギイ深夜の闇に鳴った。 葛西善蔵 「遊動円木」
・・・そして着いた夜あるホテルへ泊まるんですが、夜中にふと眼をさましてそれからすぐ寝つけないで、深夜の闇のなかに旅情を感じながら窓の外を眺めるんです。空は美しい星空で、その下にウィーンの市が眠っている。その男はしばらくその夜景に眺め耽っていたが、・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
一 喬は彼の部屋の窓から寝静まった通りに凝視っていた。起きている窓はなく、深夜の静けさは暈となって街燈のぐるりに集まっていた。固い音が時どきするのは突き当っていく黄金虫の音でもあるらしかった。 そこは入・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・心から遠退いていた故郷と、然も思いもかけなかったそんな深夜、ひたひたと膝をつきあわせた感じでした。私はなにの本当なのかはわかりませんでしたが、なにか本当のものをその中に感じました。私はいささか亢奮をしていたのです。 然しそれが芸術に於て・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・ 親戚の人達は飾り一つないような病院風の部屋に火鉢を囲んで、おげんの亡き骸の仮りに置いてある側で、三月の深夜らしい時を送った。おげんが遺した物と云っても、旅人のように極少なかった。養子はそれを始末しながら、「よくそれでも、こんなとこ・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・時には、自分の身体にまで上って来るような物凄い恐怖に襲われて、眼が覚めることが有った。深夜に、高瀬は妻を呼起して、二人で台所をゴトゴト言わせて、捕鼠器を仕掛けた。 その年の夏から秋へかけて、塾に取っては種々な不慮の出来事があった。広・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・その為に深夜までも思い耽る、朝も遅くなる、つい怠り勝に成るような仕末。彼は長い長い腰弁生活に飽き疲れて了った。全くこういうところに縛られていることが相川の気質に適かないのであって、敢て、自ら恣にするのでは無い、と心を知った同僚は弁護してくれ・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・なかなかである。深夜、裸形で鏡に向い、にっと可愛く微笑してみたり、ふっくらした白い両足を、ヘチマコロンで洗って、その指先にそっと自身で接吻して、うっとり眼をつぶってみたり、いちど、鼻の先に、針で突いたような小さい吹出物して、憂鬱のあまり、自・・・ 太宰治 「愛と美について」
出典:青空文庫