・・・ 家の女や子供たちが昨日疎開して、家のぐるりは森閑とし空がひろびろと感じられる。 古雑誌のちぎれを何心なくとり上げたら、普仏戦争でパリの籠城のはじまった頃のゴンクールの日記があった。 道端で籠を下げた物うりが妙な貝を売っている。・・・ 宮本百合子 「折たく柴」
白いところに黒い大きい字でヴェルダンと書いたステーションへ降りた。あたりは実に森閑としていて、晩い秋のおだやかな小春日和のぬくもりが四辺の沈黙と白いステーションの建物とをつつんでいる。 ステーション前のホテルのなかも物・・・ 宮本百合子 「女靴の跡」
・・・いつも使っていない二階は不思議な一種の乾いた匂いが漂っていて、八畳の明るい座敷の方から隣の小部屋の一方には紫檀の本箱がつまっていて、艷よく光っていた。森閑としたなかでそうやって光っている本箱はやはりこわさを湛えていて、おじいさまの御本だよ、・・・ 宮本百合子 「祖父の書斎」
・・・ 今もいった通り、異様に森閑とした波止場町から、曲って、今度は支那人の裁縫店など目につく横丁を俥は走っている。私は、晴やかな希望をもって頻りにその町のつき当り、小高い樹木の繁みに注目していた。外でもない。我等のジャパン・ホテルは確にそこ・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
・・・ 再び森閑とした夜気。――私共は炬燵にさし向いの顔を見合わせ、微笑んだ。こちらのささやき。「地方色よ」「余り静かだからいい景物だ――でも、わるい妓だな」 程なく「ああ冷えちゃった」 立ったまま年増の女の云う声がした。・・・ 宮本百合子 「町の展望」
・・・ メーデーの日、モスクワの街々は、かえって深閑としている。あらゆる人群は、モスクワの中央部へ、赤い広場へと注ぎこまれて、すこし離れた街筋は、人気ない五月の空に、街頭ラジオが溢れだす音楽と大群集の歓呼の声をまいている。夕方、行進が解散・・・ 宮本百合子 「メーデーに歌う」
・・・―― 子供の心にも、白々と雨戸のしまった空家は、叢が深ければ深いだけ、フッと四辺が森閑とした時変な気持を起させるのか、荒庭は直放棄されてしまった。 もう子供の声もしない。草がのびる。草ばかり夜昼繁茂する。夜半、目が醒める。微に草の葉・・・ 宮本百合子 「蓮花図」
・・・そうして、暫くは森閑とした宮殿の中で、脱皮を掻きむしるナポレオンの爪音だけが呟くようにぼりぼりと聞えていた。と、俄に彼の太い眉毛は、全身の苦痛を受け留めて慄えて来た。「余はナポレオン・ボナパルトだ。余はナポレオン・ボナパルトだ」 彼・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
出典:青空文庫