・・・と、吉里は猪口を出したが、「小杯ッて面倒くさいね」と傍にあッた湯呑みと取り替え、「満々注いでおくれよ」「そろそろお株をお始めだね。大きい物じゃア毒だよ」「毒になッたッてかまやアしない。お酒が毒になッて死んじまッたら、いッそ苦労がなく・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・藩中に商業行わるれば上士もこれを傍観するに非ず、往々竊に資本を卸す者ありといえども、如何せん生来の教育、算筆に疎くして理財の真情を知らざるが故に、下士に依頼して商法を行うも、空しく資本を失うか、しからざればわずかに利潤の糟粕を嘗るのみ。・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
・・・あなたが次第に名高くおなりになるのを、わたくしは蔭ながら胸に動悸をさせて、正直に心から嬉しく存じて傍看いたしていました。それにひっきりなしに評判の作をお出しになるものですから、わたくしが断えずあなたの事を思わせられるのも、余儀ないわけでござ・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・(独窓の傍に座しおる。夕陽夕陽の照す濡った空気に包まれて山々が輝いている。棚引いている白雲は、上の方に黄金色の縁を取って、その影は灰色に見えている。昔の画家が聖母を乗せる雲をあんな風にえがいたものだ。山の裾には雲の青い影が印せられている。山・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・田舎へ行脚に出掛けた時なども、普通の旅籠の外に酒一本も飲まぬから金はいらぬはずであるが、時々路傍の茶店に休んで、梨や柿をくうのが僻であるから、存外に金を遣うような事になるのであった。病気になって全く床を離れぬようになってからは外に楽みがない・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・どこの海浜にでも、そこが少し有名な場所なら必ずつきものの、船頭の古手が別荘番の傍部屋貸をする、その一つであった。 従妹のふき子がその年は身体を損ね、冬じゅう鎌倉住居であった。二月の或る日、陽子は弟と見舞旁遊びに行った。停車場を出たばかり・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ 花房はそっと傍に歩み寄った。そして手を触れずに、やや久しく望診していた。一枚の浴衣を、胸をあらわして著ているので、殆ど裸体も同じ事である。全身の筋肉が緊縮して、体は板のようになっていて、それが周囲のあらゆる微細な動揺に反応して、痙攣を・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・そこでこの面白い若者の傍を離れないことにした。若者の方でも女が人がよくて、優しくて、美しいので、お役人の所に連れて行って夫婦にして貰った。 ツァウォツキイはそれからも身持を変えない。ある時はどこかの見せ物小屋の前に立って客を呼んでいるこ・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・「あの傍じゃ、おれが、誰やらん逞ましき、敵の大将の手に衝き入ッて騎馬を三人打ち取ッたのは。その大将め、はるか対方に栗毛の逸物に騎ッてひかえてあったが、おれの働きを心にくく思いつろう、『あの武士、打ち取れ』と金切声立てておッた」「はは・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・女の子は彼の傍へ寄って来て、「アッ、アッ。」といいながら座蒲団を灸の胸へ押しつけた。 灸は座蒲団を受けとると女の子のしていたようにそれを頭へ冠ってみた。「エヘエヘエヘエヘ。」と女の子は笑った。 灸は頭を振り始めた。顔を顰めて・・・ 横光利一 「赤い着物」
出典:青空文庫