・・・大事にしなくちゃ済まないよ。」 すると房子は夕明りの中に、もう一度あでやかに笑って見せた。「ですからあなたの戦利品もね。」 その時は彼も嬉しかった。しかし今は…… 陳は身ぶるいを一つすると、机にかけていた両足を下した。それは・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・わたしは格別わたしの妻に済まないと思っていた訣ではなかった。が、妙にこの言葉はわたしの心に滲み渡った。わたしは正直にこう思った。――「或はこの女にもすまないのかも知れない。」わたしは未だにこの女にだけは優しい心もちを感じている。 ・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・ と低いが壁天井に、目を上げつつ、「角海老に似ていましょう、時計台のあった頃の、……ちょっと、当世ビルジングの御前様に対して、こういっては相済まないけども。……熟と天頂の方を見ていますとね、さあ、……五階かしら、屋の棟に近い窓に、女・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ と太く書生ぶって、「だから、気が済まないなら、預け給え。僕に、ね、僕は構わん。構わないけれど、唯立替えさして気が済まない、と言うんなら、その金子の出来るまで、僕が預かって置けば可うがしょう。さ、それで極った。……一ツ莞爾としてくれ・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・「政夫さん、済まない。私さっきほんとに考事していました。私つくづく考えて情なくなったの。わたしはどうして政夫さんよか年が多いんでしょう。私は十七だと言うんだもの、ほんとに情なくなるわ……」「民さんは何のこと言うんだろう。先に生れたか・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・「そうでしょう、僕もこんなに遅くなるつもりではなかったがな、いやどうも深更に驚かして済まないなア……」「まアあがり給え」 そういって岡村は洋燈を手に持ったなり、あがりはなの座敷から、直ぐ隣の茶の間と云ったような狭い座敷へ予を案内・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・「先生にこうおごらして済まない、わ、ねえ」と、可愛い目つきで吉弥が僕をながめたのに答えて、「馬鹿!」と一声、僕は強く重い欝忿をあびせかけた。「そのこわい目!」しばらく吉弥は見つめていたが、「どうしたのよ」と、かおをしがめて僕にす・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・何でも個性を発揮しなければ気が済まないのが椿岳の性分で、時偶市中の出来合を買って来ても必ず何かしら椿岳流の加工をしたもんだ。 なお更住居には意表外の数寄を凝らした。地震で焼けた向島の梵雲庵は即ち椿岳の旧廬であるが、玄関の額も聯も自製なら・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・で碌々用談も済まない中に撃退されてブツクサいうのは珍らしくなかった。 尤も沼南は極めて多忙で、地方の有志者などが頻繁に出入していたから、我々閑人にユックリ坐り込まれるのは迷惑だったに違いない。かつ天下国家の大問題で充満する頭の中には我々・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・「どうもお前さんが、そう捌けて言っておくれだと、私はなおと済まないようで……」「何がお光さんに済まねえことがあるものか、済まねえのは俺よ。だが、そんなことはまあどうでもいいとして、この後もやっぱりこれまで通り付き合っちゃくれるだろう・・・ 小栗風葉 「深川女房」
出典:青空文庫