・・・ 田宮は一盃ぐいとやりながら、わざとらしい渋面をつくって見せた。「だがお蓮の今日あるを得たのは、実際君のおかげだよ。」 牧野は太い腕を伸ばして、田宮へ猪口をさしつけた。「そう云われると恐れ入るが、とにかくあの時は弱ったよ。お・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・見給え、世界の名選手さへ大抵は得意の微笑のかげに渋面を隠しているではないか? 人生は狂人の主催に成ったオリムピック大会に似たものである。我我は人生と闘いながら、人生と闘うことを学ばねばならぬ。こう云うゲエムの莫迦莫迦しさに憤慨を禁じ得な・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・ 犬も桃太郎の渋面を見ると、口惜しそうにいつも唸ったものである。 その間も寂しい鬼が島の磯には、美しい熱帯の月明りを浴びた鬼の若者が五六人、鬼が島の独立を計画するため、椰子の実に爆弾を仕こんでいた。優しい鬼の娘たちに恋をすることさえ・・・ 芥川竜之介 「桃太郎」
・・・ 侯爵は渋面造りて、「貴船、こりゃなんでも姫を連れて来て、見せることじゃの、なんぼでも児のかわいさには我折れよう」 伯爵は頷きて、「これ、綾」「は」と腰元は振り返る。「何を、姫を連れて来い」 夫人は堪らず遮りて、・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・四辺に誰も居ないのを、一息の下に見渡して、我を笑うと心着いた時、咄嗟に渋面を造って、身を捻じるように振向くと…… この三角畑の裾の樹立から、広野の中に、もう一条、畷と傾斜面の広き刈田を隔てて、突当りの山裾へ畦道があるのが屏風のごとく連っ・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・手で招いても渋面の皺は伸びよう。また厨裡で心太を突くような跳梁権を獲得していた、檀越夫人の嫡女がここに居るのである。 栗柿を剥く、庖丁、小刀、そんなものを借りるのに手間ひまはかからない。 大剪刀が、あたかも蝙蝠の骨のように飛んでいた・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・とU氏は渋面を作って苦々しい微笑を唇辺に寄せつつ、「あの女は先天的に堕落の要素を持ってる。僕は裁判をしてこっちが羞恥を感じて赤面したが、女はシャアシャアしたもんで、平気でベラベラ白状した。職業的堕落婦人よりは一層厚顔だ。口の先では済まない事・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・ 私も危く大笑いするところであったが、懸命に努めて渋面を作り、「ごまかしては、いかん。君は今、或る種の恐怖を感じていなければならぬところだ。とにかく、僕と一緒に来給え。」ともすると笑い出しそうになって困るので、私は多少狼狽して後をも・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・シュエスターが抱いて母親の所へつれて行ってやっとすかして席へつかしたが、やはり渋面をしては後ろを向いている。おおぜいの子供の中にはあくびをしているのもある。眠くてコクリコクリするのもあります。堂のすみには大きなタンネンバウムが立ててあってシ・・・ 寺田寅彦 「先生への通信」
出典:青空文庫