・・・しかしこの伝統もまた三月九日の夜を名残りとして今は全く湮滅してしまったのであろう。 ○ この夜吉原の深夜に見聞した事の中には、今なお忘れ得ぬものが少くなかった。 すみれという店は土間を間にしてその左右に畳が・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・当時ロッチの見た日本の風景と生活にして今は既に湮滅して跡を留めざるものも少くはない。ロッチの著作はわたくしが幼年のころに見覚えた過去の時代の懐しき紀念である。長煙管で灰吹の筒を叩く音、団扇で蚊を追う響、木の橋をわたる下駄の音、これらの物音は・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・この哀愁は迷信から起る恐怖と共に、世の革るにつれて今や全く湮滅し尽したものである。わたくし等が少年の頃には風の音鐘の響犬の声按摩の笛などが無限の哀愁を覚えさせたばかりではない。夜の闇と静寂とさえもが直に言い知れぬ恐怖の泉となった。之に反して・・・ 永井荷風 「巷の声」
・・・乃ち私の稚時の古跡はもう影も形もなくこの浮世からは湮滅してしまったのだ…… * 寺院と称する大きな美術の製作は偉大な力を以てその所在の土地に動しがたい或る特色を生ぜしめる。巴里にノオトル・ダアムがある。浅草に観・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・その影響の下に日本人の作り出した文化産物も偶然に残存した少数の例外のほかは、実に徹底的に湮滅させられてしまった。したがってあれほど大きい、深い根をおろした文化運動も、日本の歴史では、ちょっとした挿話くらいにしか取り扱われないことになった。・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫