・・・そして大きな褄楊枝で草色をした牛皮を食べていると、お湯の加減がいいというので、湯殿へ入っていった。すると親類の一人から電話がかかって、辰之助が出てゆくと、今避難者が四百ばかり著くから、その中に道太の家族がいるかもしれないというのであった。道・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ 名山がふと廊下の足音を見返ると、吉里が今便所から出て湯殿の前を通るところであッた。しッと言ッた名山の声に、一同廊下を見返り、吉里の姿を見ると、さすがに気の毒になッて、顔を見合わせて言葉を発する者もなかッた。 * ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 彼は、湯殿の鏡の前で、彼が後に来たのも知らず真心こめて化粧をなおしている千代を見出した。彼は困って咳払いした。千代は鏡の中でぱっと眼を移し、重って写っている彼の顔に向って華やかに微笑みかけそして、ゆっくりどきながら云った。「まあ、・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・内部は三和土のありふれた湯殿のつくりであった。盥が置いてあるのだが、縞のフランネルの洗濯物がよっぽど幾日もつかりっぱなしのような形で、つかっている。ブリキの子供用のバケツと金魚が忘れられたようにころがってある。温泉の水口はとめられていて、乾・・・ 宮本百合子 「上林からの手紙」
・・・ 千世子は山形の五色の温泉へ祖母と一緒に行った時、湯殿をのぞいて居た青光りのする眼玉を思い出して身ぶるいの出る様な気がした。「私の行った温泉の中で飯坂の温泉はかなり気持がようござんしたよ。 私は妙に東北の温泉へばっかり行きました・・・ 宮本百合子 「蛋白石」
・・・ 湯殿から水口から、どこの隅までもゆうべ鍵をかけた通りに釘がささり、棧が下りて、鼠のくぐったあとさえもない。 それに足跡もなければ、どの部屋にも紛失物がないので、何が何だか分らない様な心持になって仕舞った。私の部屋の彼那ぼろ雨戸でさ・・・ 宮本百合子 「盗難」
今日も雨だ。雨樋がタンタンタラ・タラタラ鳴っている。ここでは殆ど一日置き位に雨が降る。雨の日は広い宿屋じゅうがひっそりして、廊下に出ると、木端葺きの湯殿の屋根から白く湯気の立ち騰るのや崖下の渡廊下を溜塗りの重ね箱をかついだ・・・ 宮本百合子 「夏遠き山」
・・・ 奥さんは幾時間でも壁だの湯殿のタイルだのをほじくって余念なかった。そこにはきっと蠅の糞の跡とか塵とか針の先ほどのものがついてい、人形に見えるのであった。引ずった粋なお召の裾や袂を水でびしゃびしゃにし、寒さでがたがた震えながら縁側じゅう・・・ 宮本百合子 「牡丹」
・・・二人は湯殿の中へかくれて本を読み合った。リュドミラの母親が毛皮商のところへ働きにゆき、弟が瓦工場へ出かけてしまうと小さいゴーリキイはリュドミラの家へ出かけた。そして「二人は茶をのんでその後で口やかましいリュドミラの母に気づかれないようにサモ・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイによって描かれた婦人」
・・・ なげつける様に云って、寝椅子からとび上って湯殿にかけ込んで、水道の下にかおを出してザアザア目をつぶって水をかけた。白いタオルでスーッとふいて四季の花をつけて、西洋白粉をはたいて、桜色の耳たぼとうるみのある眼を見つめた。女らしいやわらか・・・ 宮本百合子 「芽生」
出典:青空文庫