・・・同書に載せられた春の墨堤という一篇を見るに、「一、塵いまだたたず、土なほ湿りたる暁方、花の下行く風の襟元に冷やかなる頃のそぞろあるき。 一、夜ややふけて、よその笑ひ声も絶る頃、月はまだ出でぬに歩む路明らかならず、白髭あたり森影黒く交・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・爾薩待「それはね、あんまり乾き過ぎたためでもない、あんまり湿り過ぎたためでもない。厚く蒔きすぎたのでもない。まあ一反歩四升ぐらい播いたのでしょう。」農民一「はあ。」爾薩待「それでいいのです。また肥料のあまり少ないのでもない。硫安・・・ 宮沢賢治 「植物医師」
・・・と云う瞬間、泰子の激した、思い上った燃えるような眼には、さ霧のような湿りが来た。 黄銅時代のために。 彼等の運命より、「彼は、彼女の眼の中に、彼の為ならばどんな事でもする。どんな罪でも犯す。彼女の身は彼の如何なる暗黒な意に・・・ 宮本百合子 「結婚問題に就て考慮する迄」
・・・煤で光るたるきの下に大きな炉が一つ切ってあって、その炉の灰ばかりが、閉め切った雨戸の節穴からさし込む日光の温みにつれ、秋の末らしく湿り、また春の始めらしく軽く乾く。――微かな生きものだ。 侘しい古い家も、七月になると一時に雨戸という雨戸・・・ 宮本百合子 「毛の指環」
・・・ そこから少し低くなっている彼方を見渡すと、白い小砂利を敷いた細道を越えた向うには、馬ごやしの厚い叢に縁取りされた数列の花床と、手入れの行き届いた果樹がある。 湿りけのぬけない煉瓦が、柔らかな赤茶色に光って見える建物の傍に、花をつけ・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
・・・ 娘のまきと、さだに守りをされながら、六の小さい裸足の足音は湿りけのある地面に吸いつくような調子で、今来て肩につかまったかと思うと、もうあっちへヨチヨチとかけて行く。「ア、六。 そげえなとこさえぐでねえぞ。 血もんもが出来て・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・彼の苦しそうな顔を見たのは、湿りのない炎熱の日が一月以上も続いた後であった。しかしその叫び声やしおれた顔も、その機会さえ過ぎれば、すぐに元の快活に帰って苦しみの痕をめったにあとへ残さない。しかも彼らは、我々の眼に秘められた地下の営みを、一日・・・ 和辻哲郎 「樹の根」
出典:青空文庫