・・・その花や莟をチョイチョイ摘取って、ふところの紙の上に盛溢れるほど持って来た。サア、味噌までにも及びません、と仲直り気味にまず予に薦めてくれた。花は唇形で、少し佳い香がある。食べると甘い、忍冬花であった。これに機嫌を直して、楽しく一杯酒を賞し・・・ 幸田露伴 「野道」
・・・そのいそがしい水の流れは、決して堤から溢れることがありません。けれども、川沿いの村に住んでいる家々の一人のように、自分の務めをいそしんでいました。両岸には人家や樹陰の深い堤があるので、川の女神は、女王の玉座から踏み出しては家毎の花園の守神と・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・まさか、そんな、あまったるい通俗小説じみた、――腹立たしくさえなって、嘉七は、てのひらから溢れるほどの錠剤を泉の水で、ぐっ、ぐっとのんだ。かず枝も、下手な手つきで一緒にのんだ。 接吻して、ふたりならんで寝ころんで、「じゃあ、おわかれ・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・ エレーンの眼には涙が溢れる。 涙の中にまた思い返す。ランスロットこそ誓わざれ。一人誓えるわれの渝るべくもあらず。二人の中に成り立つをのみ誓とはいわじ。われとわが心にちぎるも誓には洩れず。この誓だに破らずばと思い詰める。エレーンの頬の色・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・「おッと危ない。溢れる、溢れる」「こんな時でなくッちゃア、敵が取れないわ。ねえ、花魁」 吉里は淋しそうに笑ッて、何とも言わないでいる。「今擽られてたまるものか。降参、降参、本統に降参だ」「きっとですか」「きっとだ、き・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・妹が帰ったのはまだ日の高いうちであったが、大きな布呂敷に溢れるほどの土筆は、わが目の前に出し広げられた。彼はその土筆の袴をむきながら頻りに一人で何事かしゃべって居る。かような獲物はとてもわが郷里などでは得られる者ではないので、その分量の多き・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・たとえば帽子の型のある奇抜な面白味というようなものは、それを頂いている顔に漲っている知的な趣、体のこなし全体に溢れる女としての複雑な生活的な勁さ、ニュアンスなどとあいまって美しさとなるのだから、体の生活的感覚はそういうものからずっとおくれて・・・ 宮本百合子 「新しい美をつくる心」
・・・それらがほんとに思わずも溢れる川のように溢れてかかれた作品であり、ほんとに書かずにいられない題材と主題とによっているというまじりけなさの点で、これら二つの作品のかげには、人生の初秋において妻として甦った一人の女の豊かな秋のみのりへの生と文学・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第七巻)」
・・・ところどころに急設された水飲場の水道栓から溢れる水が、あたりの砂にしみている。河の方から吹く風は爽かだ。 広場に向って開いているラジオ拡声機からは、絶え間なく、活溌な合唱、又は交響楽がはじきだされる。 すばらしいメーデーの飾をみよう・・・ 宮本百合子 「インターナショナルとともに」
・・・此深い白昼の沈黙と溢れる光明の裡に座して私、未熟なる一人の artist は何を描こう。空想は重く、思惟は萎えてただ 只管のアンティシペーションが内へ 内へ肉芽を養う胚乳の溶解のように融け入るのだ。・・・ 宮本百合子 「海辺小曲(一九二三年二月――)」
出典:青空文庫