・・・その拍子に氷嚢が辷り落ちた。洋一は看護婦の手を借りずに、元通りそれを置き直した。するとなぜかまぶたの裏が突然熱くなるような気がした。「泣いちゃいけない。」――彼は咄嗟にそう思った。が、もうその時は小鼻の上に涙のたまるのを感じていた。「莫・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・僕はこれ等の支那美人よりも寧ろそのボオトの大辷りに浪を越えるのを見守っていた。けれども譚は話半ばに彼等の姿を見るが早いか、殆ど仇にでも遇ったように倉皇と僕にオペラ・グラスを渡した。「あの女を見給え。あの艫に坐っている女を。」 僕は誰・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・あるいは白いテエブル・クロオスの上に、行儀よく並んでいる皿やコップが、汽車の進行する方向へ、一時に辷り出しそうな心もちもする。それがはげしい雨の音と共に、次第に重苦しく心をおさえ始めた時、本間さんは物に脅されたような眼をあげて、われ知らず食・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・僕は眠ったために気分がよくなって今まであったことは忘れてしまって、少し恥しそうに笑いかえしながら、慌てて膝の上から辷り落ちそうになっていた葡萄の房をつまみ上げましたが、すぐ悲しいことを思い出して笑いも何も引込んでしまいました。「そんなに・・・ 有島武郎 「一房の葡萄」
・・・ おらが肩も軽くなって、船はすらすらと辷り出した。胴の間じゃ寂りして、幽かに鼾も聞えるだ。夜は恐ろしく更けただが、浪も平になっただから、おらも息を吐いたがね。 えてものめ、何が息を吐かせべい。 アホイ、アホイ、とおらが耳の傍でま・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・道理こそ、人の目と、その嘴と打撞りそうなのに驚きもしない、と見るうちに、蹈えて留った小さな脚がひょいと片脚、幾度も下へ離れて辷りかかると、その時はビクリと居直る。……煩って動けないか、怪我をしていないかな。…… 以前、あしかけ四年ば・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・壁も柱もまだ新しく、隙間とてもないのに、薄い霧のようなものが、すっと這入っては、そッと爪尖を嘗めるので、変にスリッパが辷りそうで、足許が覚束ない。 渠は壁に掴った。 掌がその壁の面に触れると、遠くで湯の雫の音がした。 聞き澄すと・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・ が、沼南の応対は普通の社交家の上ッ滑りのした如才なさと違って如何にも真率に打解けて対手を育服さした。いつもニコニコ笑顔を作って僅か二、三回の面識者をさえ百年の友であるかのように遇するから大抵なものはコロリと参って知遇を得たかのように感・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・ あわてて手を離した時、彼女の身体は巧くプラットホームの上へ辷り落ちていた。「どうも、ありがとうございました」「いやあ、――あ、荷物、荷物……」 赤井と二人掛りで渡して、「これだけですか」「はあ、どうも……」「じ・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・水平線を境としてそのあちら側へ滑り下りてゆく球面からほんとうに美しい海ははじまるんだ。君は言ったね。 布哇が見える。印度洋が見える。月光に洗われたべンガル湾が見える。現在眼の前の海なんてものはそれに比べたらラフな素材にしか過ぎない。ただ・・・ 梶井基次郎 「海 断片」
出典:青空文庫