・・・の一人息子に英語と漢文と習字とを習った。が、どれも進歩しなかった。ただ英語はTやDの発音を覚えたくらいである。それでも僕は夜になると、ナショナル・リイダアや日本外史をかかえ、せっせと相生町二丁目の「お師匠さん」の家へ通って行った。It is・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・依田学海翁の漢文の椿岳伝が屏風の裏に貼ってあったそうだが、学海の椿岳伝は『譚海』の中にも載っていない。定めし椿岳の面目を躍如たらしめた奇文であったろうと思う。が、伯爵邸は地震の中心の本所であったから、屏風その物からして多分焼けてしまったろう・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・しかも漢詩漢文や和歌国文は士太夫の慰みであるが、小説戯曲の如きは町人遊冶郎の道楽であって、士人の風上にも置くまじきものと思われていた故、小説戯曲の作者は幇間遊芸人と同列に見られていた。勧善懲悪の旧旗幟を撞砕した坪内氏の大斧は小説其物の内容に・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・ その時私より三、四十分も遅れて大学の古典漢文科の出身だというYが来問した。この人の口から日本将来の文章という問題が提起された。その時の二葉亭の答が、今では発揮と覚えていないが、何でもこういう意味であった。「一体文章の目的は何である乎。・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・われわれの文学者になれないのは筆が執れないからなれないのではない、われわれに漢文が書けないから文学者になれないのでもない。われわれの心に鬱勃たる思想が籠もっておって、われわれが心のままをジョン・バンヤンがやったように綴ることができるならば、・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・「小田くん、すこし、漢文を見てあげよう。用がすんだら、ここにきたまえ。」と、老先生は、いわれた。「先生、しかし、あらしになりそうです。また暗くなって、お帰りにお困りですから。」と、小田は、遠慮したのでした。 彼は、この小学校を卒・・・ 小川未明 「空晴れて」
・・・古来日本の文章には、何々して何々侍るというような雅文体や、何々し何々すべけんやというような漢文体なぞが行われてはいるが、それはある時代のある人々の心から、必然に生れ出た文章であって、決してわれ/\新時代の人の新しい心の表現の範とすべきもので・・・ 小川未明 「文章を作る人々の根本用意」
・・・彼は国漢文中等教員検定試験の勉強中であった。それで、お君は、「あわれ逢瀬の首尾あらば、それを二人が最期日と、名残りの文のいいかわし、毎夜毎夜の死覚悟、魂抜けてとぼとぼうかうか身をこがす……」 と、「紙治」のサワリなどをうたった。下手・・・ 織田作之助 「雨」
・・・それの産地だというカリフォルニヤが想像に上って来る。漢文で習った「売柑者之言」の中に書いてあった「鼻を撲つ」という言葉が断れぎれに浮かんで来る。そしてふかぶかと胸一杯に匂やかな空気を吸い込めば、ついぞ胸一杯に呼吸したことのなかった私の身体や・・・ 梶井基次郎 「檸檬」
・・・それは訳読した漢文を原形に復するので、ノーミステーキの者が褒詞を得る。闘文闘詩が一月に一度か二度ある、先生の講義が一週一二度ある、先ずそんなもので、其の他何たる規定は無かったのです。わたくしの知っている私塾は先ずそんなものでした。で、自宅練・・・ 幸田露伴 「学生時代」
出典:青空文庫