・・・二人は露に濡れながら、まだ寺のほとりを去らずにいた。 が、兵衛はいつまで経っても、ついに姿を現さなかった。 大団円 甚太夫主従は宿を変えて、さらに兵衛をつけ狙った。が、その後四五日すると、甚太夫は突然真夜中から、・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・そこへ彼も潮に濡れたなり、すたすた板子を引きずって来た。が、ふと彼の足もとに僕等の転がっているのを見ると、鮮かに歯を見せて一笑した。Mは彼の通り過ぎた後、ちょっと僕に微苦笑を送り、「あいつ、嫣然として笑ったな。」と言った。それ以来彼は僕・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・若者の身のまわりには白い泡がきらきらと光って、水を切った手が濡れたまま飛魚が飛ぶように海の上に現われたり隠れたりします。私はそんなことを一生懸命に見つめていました。 とうとう若者の頭と妹の頭とが一つになりました。私は思わず指を口の中から・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・ 汐が入ると、さて、さすがに濡れずには越せないから、此処にも一つ、――以前の橋とは間十間とは隔たらぬに、また橋を渡してある。これはまた、纔かに板を持って来て、投げたにすぎぬ。池のつづまる、この板を置いた切れ口は、ものの五歩はない。水は川・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・わが財産の主脳であるところの乳牛が、雨に濡れて露天に立っているのは考えるに堪えない苦しみである。何ともたとえようのない情なさである。自分が雨中を奔走するのはあえて苦痛とは思わないが、牛が雨を浴みつつ泥中に立っているのを見ては、言語にいえない・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・ 泥塗れのビショ濡れになってる夜具包や、古行李や古葛籠、焼焦だらけの畳の狼籍しているをくものもあった。古今の英雄の詩、美人の歌、聖賢の経典、碩儒の大著、人間の貴い脳漿を迸ばらした十万巻の書冊が一片業火に亡びて焦土となったを知らず顔に、渠・・・ 内田魯庵 「灰燼十万巻」
・・・女の長い黒い頭髪がびっしょりと水に濡れて月の光に輝いていたからであります。女は箱の中から、真赤な蝋燭を取り上げました。そして、じっとそれに見入っていましたが、やがて銭を払ってその赤い蝋燭を持って帰って行きました。 お婆さんは、燈火のとこ・・・ 小川未明 「赤い蝋燭と人魚」
・・・ぼうっとなって歩いているうちに、やがてアセチリン瓦斯の匂いと青い灯が如露の水に濡れた緑をいきいきと甦らしている植木屋の前まで来ると、もうそこからは夜店の外れでしょう、底が抜けたように薄暗く、演歌師の奏でるバイオリンの響きは、夜店の果てまで来・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・Fは黙ってちらりと眼を私の方に向けたが、それが涙で濡れていた。どんな場合でも、涙は私の前では禁物だった。敏感な神経質な子だから、彼はどうかすると泣きたがる。それが、泣くのが自然であるかもしれないが、私は非常に好かないのだ。凶暴な人間が血を見・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・と言って濡れた衣服をひっぱってみても「知らん」と言っている。足が滑った拍子に気絶しておったので、全く溺れたのではなかったとみえる。 そして、なんとまあ、いつもの顔で踊っているのだ。―― 兄の話のあらましはこんなものだった。ちょうど近・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
出典:青空文庫