・・・兄がいったい、どのような危い瀬戸際に立っているのか、それを聞かぬうちは帰られないと思っていた。有原は、節子を無視して、黙ってビイルを飲んでいる。「何か、」節子は、意を決して尋ねた。「起ったのでしょうか。」「え?」振り向いて、「知りま・・・ 太宰治 「花火」
・・・本能的な、野蛮な女性であった事は首肯出来ますが、いまの此のいのちの瀬戸際に於けるラプンツェルは、すべてを諦めているように見えるではないか。死にます、とラプンツェルは言っているのです。死んだほうがよい、と言っているのです。すべてを諦めたひとの・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・戦地の寒空の塹壕の中で生きる死ぬるの瀬戸際に立つ人にとっては、たった一片の布片とは云え、一針一針の赤糸に籠められた心尽しの身に沁みない日本人はまず少ないであろう。どうせ死ぬにしてもこの布片をもって死ぬ方が、もたずに死ぬよりも心淋しさの程度に・・・ 寺田寅彦 「千人針」
・・・そのまなざしは危ない瀬戸際で兵士たちの勇気をとり直させ、医者の沈着を支え、そして、失われそうであった命をとりとめる役にたつのであった。その死亡率を半減された兵士たちの心からなる喜びの眼に彼女が天使に見えたのは自然だった。 けれども、・・・ 宮本百合子 「フロレンス・ナイチンゲールの生涯」
・・・万一事実とすれば、此処にいる数十人が、命の瀬戸際にあると云うことになる。不安が募るにつれ、非常警報器を引けと云う者まで出た。駅の構内に入る為めに、列車が暫く野っぱの真中で徐行し始めた時には、乗客は殆ど総立ちになった。何か異様が起った。今こそ・・・ 宮本百合子 「私の覚え書」
・・・自分で金をとるようになると、思うままをするだろうと、それを嫌って止めろと云うのでしょうが、もしも今、目の前で良人が失業つづき、二人の子は育てねばならず、しかも家中売れるものは売りつくしてしまったという瀬戸際になった時、あなたが働くといっても・・・ 宮本百合子 「「我らの誌上相談」」
出典:青空文庫