・・・の字軒の屋根の上を火の玉が飛んで行ったと言いました。すると半之丞は大真面目に「あれは今おらが口から出て行っただ」と言ったそうです。自殺と言うことはこの時にもう半之丞の肚にあったのかも知れません。しかし勿論「青ペン」の女は笑って通り過ぎたと言・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・すると小さい火の玉が一つ、「てつ」の顔のまわりを飛びめぐり始めた。「てつ」ははっとして目を醒ました。火の玉はもちろんその時にはもうどこかへ消え失せていた。しかし「てつ」の信ずるところによればそれは四、五日前に死んだ「てつ」の飼い猫の魂がじゃ・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・ 仁右衛門は火の玉のようになって飛びかかった。当の二人と二、三人の留男とは毬になって赤土の泥の中をころげ廻った。折重なった人々がようやく二人を引分けた時は、佐藤は何所かしたたか傷を負って死んだように青くなっていた。仲裁したものはかかり合・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・笠井さんは、醜怪な、奇妙な表情を浮べて、内心、動乱の火の玉を懐いたまま、ものもわからず勘定をすまし、お茶代を五円置いて、下駄をはくのも、もどかしげに、「やあ、さようなら。こんどゆっくり、また来ます。」くやしく、泣きたかった。 宿の玄・・・ 太宰治 「八十八夜」
・・・数千の火の玉小僧が列をなして畳屋の屋根のうえで舞い狂い、火の粉が松の花粉のように噴出してはひろがりひろがっては四方の空に遠く飛散した。ときたま黒煙が海坊主のようにのっそりあらわれ屋根全体をおおいかくした。降りしきる牡丹雪は焔にいろどられ、い・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・では当時行われていた各種の迷信を笑っていたのではないかと思われる節もところどころに見える。『桜陰比事』で偽山伏を暴露し埋仏詐偽の品玉を明かし、『一代男』中の「命捨ての光物」では火の玉の正体を現わし、『武道伝来記』の一と三では鹿嶋の神託の嘘八・・・ 寺田寅彦 「西鶴と科学」
・・・しかし実際は二億二千八百万キロメートルの距離にある直径百四十万キロメートルの火の玉である。 ヘルムホルツは薄暮に眼前を横ぎった羽虫を見て遠くの空をかける大鵬と思い誤ったという経験をしるしており、また幼時遠方の寺院の塔の回廊に働いている職・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・赤や青の火の玉を投げ上げる。遅れて来る人々もあちこちの横町からプロージット・ノイヤールと口々に叫ぶ。町の雪は半分泥のようになった上を爪立って走る女もあれば、五六人隊を組んで歌って通る若者もある。巡査もにこにこして、時々プロージットの返答をし・・・ 寺田寅彦 「先生への通信」
・・・ 突然二十一歳になるAが「今火の玉が飛んだ」といいだすと、十九歳になるBが「私も見た」といってその現象の客観的実在性を証明するのであった。 そこで二人の証言から互いに一致する諸点を総合してみると、だいたい次のようなものである。 ・・・ 寺田寅彦 「人魂の一つの場合」
・・・ 火の玉の様になった栄蔵のわきで手拭を代える事を怠らずに、お節は二夜、まんじりともしなかった。 四日五日と熱は一分位ずつ下って、十日目には手にも熱く感じない様になってお節は厚く礼を述べて借りて居た計温器を医者に返した。 一日一日・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
出典:青空文庫