・・・この町から火事が出て、おりしも吹き募った海風にあおられて、一軒も残らず焼きはらわれてしまいました。いまでも北海の地平線にはおりおり黒い旗が見えます。 小川未明 「黒い旗物語」
・・・泥棒の噂や火事が起こった。短い日に戸をたてる信子は舞いこむ木の葉にも慴えるのだった。 ある朝トタン屋根に足跡が印されてあった。 行一も水道や瓦斯のない不便さに身重の妻を痛ましく思っていた矢先で、市内に家を捜し始めた。「大家さんが・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・三月の半ば頃私はよく山を蔽った杉林から山火事のような煙が起こるのを見た。それは日のよくあたる風の吹く、ほどよい湿度と温度が幸いする日、杉林が一斉に飛ばす花粉の煙であった。しかし今すでに受精を終わった杉林の上には褐色がかった落ちつきができてい・・・ 梶井基次郎 「蒼穹」
・・・それなら火事を消すことをさきにするであろう。 しかしこの決め方にも人情にかなわない無理があることを免れない。目の前に自分の子どもの手が霜焼けている。新聞に支那の洪水の義捐の募集が出ている。手袋を買ってやる金を新聞社に送るべきか。リップス・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・「なんでもない、なんでもない、火事ごっこだよ。畜生!」彼は親爺と妹の身の上を案じた。 翌朝、村へ帰ると親爺は逃げおくれて、家畜小屋の前で死骸となっていた。胸から背にまでぐさりと銃剣を突きさされていた。動物が巣にいる幼い子供を可愛がる・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・が、それは、火事とならずにもみ消された。小作人も、はずされた仲間の方についた。伊三郎の田は、六月の植えつけから、その三分の二は耕されず雑草がはびこるまゝに荒らされだした。 だが、それから間もなくだった。「や、大変なこっちゃ。これゃ、・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・ると同時に、片がわの雑貨店の洋館がずしんと目のまえにたおれる、そちこちで、はりさけるような女のさけび声がする、それから先はまるでむちゅうで須田町の近くまで走って来たと思うと、いく手にはすでにもうもうと火事の黒烟が上っていたと言っています。・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・秋ノ蚕。火事。ケムリ。オ寺。 ごたごた一ぱい書かれてある。 太宰治 「ア、秋」
・・・けれども物語は、それで終っているのではありません。火事は一夜で燃え尽しても、火事場の騒ぎは、一夜で終るどころか、人と人との間の疑心、悪罵、奔走、駈引きは、そののち永く、ごたついて尾を引き、人の心を、生涯とりかえしつかぬ程に歪曲させてしまうも・・・ 太宰治 「女の決闘」
大学の池のまわりも、去年の火事で、だいぶ様子が変わってしまった。建物などは、どうでもなるだろうが、あの古い樹木の復旧は急にはできそうもない。惜しいものである。それでも、あの大きな木が、全部は焼けなくてしあわせであった。たと・・・ 寺田寅彦 「池」
出典:青空文庫