・・・この娘は両手で膝を擁いて悲しげに点滴の落ちている窓の外を見ているのだ。 母は娘の顔を見て、「レリヤや。何だってそんな行儀の悪い腰の掛けようをして居るのだえ。そうさね。クサカは置いて行くより外あるまいよ」といった。「可哀そうね」とレリヤは・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・ 時に絶えず音するは静な台所の点滴である。「あんなものを巻着けておいた日にゃあ、骨まで冷抜いてしまうからよ、私が褞袍を枕許に置いてある、誰も居ねえから起きるならそこで引被けねえ。」 といったが克明な色面に顕れ、「おお、そして・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・の句ではしずくの点滴の音がきりぎりすの声にオーバーラップし、「芭蕉野分して」の句では戸外に荒るる騒音の中から盥に落つる雨漏りの音をクローズアップに写し出したものである。またたとえば芭蕉は時鳥の声により、漱石は杭打つ音によって広々とした江上の・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・夏コップに井水を盛れば器外に点滴のつくのはすなわちそれではないか」と。 疑う人におよそ二種ある。先人の知識を追究してその末を疑うものは人知の精をきわめ微を尽くす人である。 何人も疑う所のない点を疑う人は知識界に一時機を画する人である・・・ 寺田寅彦 「知と疑い」
・・・浴後の茶漬も快く、窓によれば驟雨沛然としてトタン屋根を伝う点滴の音すゞしく、電燈の光地上にうつりて電車の往きかう音も騒がしからず。こうなれば宿帳つけに来し男の濡れ髪かき分けたるも涼しく、隣室にチリンと鳴るコップの音も涼しく、向うの室の欄干に・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・金を獲るには蟻が物を運ぶが如く、又点滴の雫が甃石に穴を穿つが如く根気よく細字を書くより外に道がない。 二の難事はいかに解決するだろう。解決のしかたによっては、僕は家を売り蔵書を市に鬻いで、路頭に彷徨する身となるかも知れない。僕は仏蘭西人・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・なるほど充分に雨を含んだ外套の裾と、中折帽の庇から用捨なく冷たい点滴が畳の上に垂れる。折目をつまんで抛り出すと、婆さんの膝の傍に白繻子の裏を天井に向けて帽が転がる。灰色のチェスターフィールドを脱いで、一振り振って投げた時はいつもよりよほど重・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・の鳴くや小き口あけてあぢきなや椿落ち埋む庭たつみ痩臑の毛に微風あり衣がへ月に対す君に投網の水煙夏川をこす嬉しさよ手に草履鮎くれてよらで過ぎ行く夜半の門夕風や水青鷺の脛を打つ点滴に打たれてこもる蝸牛蚊の声す忍冬・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・楓の軟かい葉から葉に伝って落ちる点滴の音がやや憂鬱に響いて来る。夜の闇の濃さが、古歌を思い出させた。五月闇おぼつかなきに郭公 山の奥より鳴きていづなり この歌調には、何か切なものがある。五月闇おぼつかなき山の奥から鳴い・・・ 宮本百合子 「新緑」
・・・広大な方丈に坐って点滴の音を聴いていたら、今日は沈君の絵を一つ見ようと思って、などと談笑しながら幾人もの支那人が畳を踏んで来た気勢を感じるようであった。 毎日よく雨が降ることだ。名物の紙鳶揚も春とともに終った長崎の若葉を濡して、毎日・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
出典:青空文庫