・・・上陸後半日もすると、われわれ一行の鼻の神経は悪臭に対して無感覚となって、うまく飯が食えるようになった。 千歳という岬端の村で半日くらい観測した時は、土地の豪家で昼食を食わしてもらった。生来見たことのない不気味な怪物のなますを御馳走になっ・・・ 寺田寅彦 「夏」
・・・そうかと言ってこのような重大な現象を無感覚に観過させないまでもそれを直視させるのをしいて避けるのもどんなものであろうか。 ねずみを縛り殺していた時の私の顔がよほど平生とちがった顔になっていたという事をあとで聞かされて少し意外な気がした。・・・ 寺田寅彦 「ねずみと猫」
・・・ これほどの損害であるのに一般世間はもちろんのこと、為政の要路に当たる人々の大多数もこれについてほとんど全く無感覚であるかのように見えるのはいったいどういうわけであるか、実に不思議なようにも思われるのである。議会などでわずかばかりの予算・・・ 寺田寅彦 「函館の大火について」
・・・ しかし世の中にはあらゆる芸術に無感覚なように見える人があり、またこれを嫌悪する人さえあるように見える。こういう人たちは「心のピアノ」を所有しない人たちである。従って調律師などには用のない人である。そういう人はいわゆる「人格者」と称せら・・・ 寺田寅彦 「備忘録」
・・・彼らから見て闇に等しい科学界が、一様の程度で彼らの眼に暗く映る間は、彼らが根柢ある人生の活力の或物に対して公平に無感覚であったと非難されるだけで済むが、いやしくもこの暗い中の一点が木村項の名で輝やき渡る以上、また他が依然として暗がりに静まり・・・ 夏目漱石 「学者と名誉」
・・・ 反対の或る一部は、まるで無感覚な状態に在る。ぼんやりと、耳を掠める風聞。――然し、兎も角、自分達の口腹の慾は満たされて行くのだし……必要なら、誰かがするだろう。――眼を逸し、物懶に居隅に踞っていようとするのである。 幾百年の過去か・・・ 宮本百合子 「アワァビット」
・・・戦の罪悪は、戦がその戦場でやった非人道的なことのほかに、こうして殺すという恐ろしいことについて無感覚になった人間を非常にたくさん日本の中にもたらした点にあります。これは非常に恐ろしいことだと思う。基本的人権の問題をいう場合も……。 新聞・・・ 宮本百合子 「浦和充子の事件に関して」
・・・絶えざる不満、圧迫の下に束縛されて、嘆き悲しみつつ軈ては其にも馴れて無感覚に成った不幸な魂が、如何うして輝く肉体の所有者に成れますでしょう。 基督教が赤子の時から吹き込んだ「平等なるべき」人類として、彼等の尊重すべき伴侶として立つべき位・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・文学そのものがつまりは人間の精神の発展と表現との意欲を本質として立っているのだから、意識してそれをはぐらかさない限り、人間生活の歴史から来る社会と個人との不幸に対して文学が無感覚ではあり得ないことのおのずからな形である。 ところがその反・・・ 宮本百合子 「職業のふしぎ」
・・・のお敏のように自覚して夫を欺瞞しつつ、その恥に無感覚なような性の女ではない。しかしながら、一郎にとっては二郎がその人当りのいい俗っぽさで自己の本心をつきつめようとしないのが憤ろしいと同じ程度に、直が妻として自分の本心の在りようを夫との間につ・・・ 宮本百合子 「漱石の「行人」について」
出典:青空文庫