大抵のイズムとか主義とかいうものは無数の事実を几帳面な男が束にして頭の抽出へ入れやすいように拵えてくれたものである。一纏めにきちりと片付いている代りには、出すのが臆劫になったり、解くのに手数がかかったりするので、いざという・・・ 夏目漱石 「イズムの功過」
・・・麓の低い平地へかけて、無数の建築の家屋が並び、塔や高楼が日に輝やいていた。こんな辺鄙な山の中に、こんな立派な都会が存在しようとは、容易に信じられないほどであった。 私は幻燈を見るような思いをしながら、次第に町の方へ近付いて行った。そして・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・お前が踏みつけてるものは、無数の赤ん坊の代りとお前自身の汚物だ。そこは無数の赤ん坊の放り込まれた、お前の今まで楽しんでいた墓場の、腐屍の臭よりも、もっと臭く、もっと湿っぽく、もっと陰気だろうよ。 だが、まだお前は若い。まだお前は六十まで・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・涙が赤い色のものであッたら、無数の朱点が打たれたらしく見えた。 この間も吉里はたえず耳を澄ましていたのである。今何を聞きつけたか、つと立ち上った。廊下の障子を開けて左右を見廻し、障子を閉めて上の間の窓の傍に立ち止ッて、また耳を澄ました。・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・あるいはこれを捨てて用いざらんか、怨望満野、建白の門は市の如く、新聞紙の面は裏店の井戸端の如く、その煩わしきや衝くが如く、その面倒なるや刺すが如く、あたかも無数の小姑が一人の家嫂を窘るに異ならず。いかなる政府も、これに堪ゆること能わざるにい・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・ある時は天を焦す焔の中に無数の悪魔が群りて我家を焼いて居る処を夢見て居る。ある時は万感一時に胸に塞がって涙は淵を為して居る。ある時は惘然として悲しいともなく苦しいともなく、我にもあらで脱殻のようになって居る。固よりいろいろに苦んで居たに違い・・・ 正岡子規 「恋」
・・・それとも、故国にとりのこされている無数の妻や母たちに、女のあたしたちも行くところ、と侵略の容易さや、いつわられた雄々しさのうらづけをするためであったろうか。客観的に歴史のうえにみたとき、これらの旅行者は決してエリカ・マンや、エヴ・キュリーの・・・ 宮本百合子 「明日の知性」
・・・時代は啻に一つの大議論家を出したのみではなくて、ほとんど無数の大議論家を出して止む時がない。即ち新文学士の諸先生がそれである。試みに帝大文学の初の数十冊を始として、同時に出た博文館の太陽以下の諸雑誌、東京の諸新聞を見たならば、鴎外と云う名に・・・ 森鴎外 「鴎外漁史とは誰ぞ」
・・・未来は鵜の描く猛猛しい緊張の態勢にあって、やがて口から吐き流れる無数の鮎の銀線が火に映る。私は翌日鵜匠から鵜をあやつった綱を貰ったが、火にもやけぬこの綱は、逆に捻じればぽろりと切れた。この微妙な考案力はどこから来たのかいまだに私は不思議であ・・・ 横光利一 「鵜飼」
・・・そういう紅い花が無数に並んでいるのを見ると、いかにもにぎやかな気持ちになる。が、しばらくの間この群落のなかを進んで行って、そういう気分に慣れたあとであったにかかわらず、次いで突入して行った深紅の紅蓮の群落には、われわれはまたあっと驚いた。こ・・・ 和辻哲郎 「巨椋池の蓮」
出典:青空文庫