・・・「お姥さん、見物をしていますよ。」 と鷹揚に、先代の邸主は落ついて言った。 何と、媼は頤をしゃくって、指二つで、目を弾いて、じろりと見上げたではないか。「無断で、いけませんでしたかね。」 外套氏は、やや妖変を感じながら、・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・ しかし、彼は独りとなって、静かに考えたとき、自分は町から出て、遠方へいった時分にも、母親の霊魂に無断であったことを思いました。また、故郷へ帰ってきてからも、母親のお墓におまいりをしたばかりで、まだ法事も営まなかったことを思い出しました・・・ 小川未明 「牛女」
・・・芸者を揚げようというのを蝶子はたしなめて、これからの二人の行末のことを考えたら、そんな呑気な気イでいてられへんともっともだったが、勘当といってもすぐ詫びをいれて帰り込む肚の柳吉は、かめへん、かめへん。無断で抱主のところを飛出して来たことを気・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・私は例の切抜きと手帳と万年筆くらい持ちだして、無断で下宿を出た。「とにかくまあ何も考えずに、田舎で静養してきたまえ、実際君の弱り方はひどいらしい。しかしそれもたんに健康なんかの問題でなくて、別なところ来てるのかもしれないが、しかしとにか・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・彼は、無断で私物箱を調べられるというような屈辱には馴れていた。が、聯隊の経理室から出た俸給以外に紙幣が兵卒の手に這入る道がないことが明瞭であるにも拘らず、弱点を持っている自分の上に、長くかゝずらっている憲兵の卑屈さを見下げてやりたい感情を経・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ お里は金を出す。無断で借りて帰った分のことをどうしようかと心で迷う。今云い出すと却って内儀に邪推されやしないだろうか?…… 番頭は金を受取ってツリ銭を出す。お里は嵩ばった風呂敷包みを気にしながら、立っている。火鉢の傍に坐りこんでい・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・ けれども、福田も、帰還者名簿中に、チャンと書きこまれていた。 そういう例は、まだ/\他にもあった。 無断で病院から出て行って、三日間、露人の家に泊ってきた男があった。それは脱営になって、脱営は戦時では銃殺に処せられることになっ・・・ 黒島伝治 「雪のシベリア」
・・・そして、ついにおしかには無断で、二里ばかり向うの町へ入学試験を受けに行った。合格すると無理やりに通学しだした。彼は、成績がよかった。 中学を出ると、再び殆んど無断で、高商へ学校からの推薦で入学してしまった。おしかは愚痴をこぼしたが、親の・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・私の室に無断で入って来たのに違いない。ああ、この奥さんは狂っている。手紙を読み終えて、私はあまりの馬鹿らしさに笑い出した。まったく黙殺ときめてしまって、手紙を二つに裂き、四つに裂き、八つに裂いて紙屑入れに、ひらひら落した。そのとき、あの人が・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・あなたが、瀬戸内海の故郷から、親にも無断で東京へ飛び出して来て、御両親は勿論、親戚の人ことごとくが、あなたに愛想づかしをしている事、お酒を飲む事、展覧会に、いちども出品していない事、左翼らしいという事、美術学校を卒業しているかどうか怪しいと・・・ 太宰治 「きりぎりす」
出典:青空文庫