・・・と内と外でしばし無言でつっ立っている。するとまだ寝つかれないでいた親父が頭をもたげて、「弁公、泊めてやれ、二人寝るのも三人寝るのも同じことだ。」「同じことは一つこった。それじゃア足を洗うんだ。この磨滅下駄を持って、そこの水道で洗って・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・あとに残った和田達は、無言でお互に顔を見合わしていた。 江原達はそのまま帰ってこなかった。 翌日未明に、軍隊は北進命令を受けた。 二十六時間の激戦や進軍の後、和田達は、チチハルにまで進んだ。煮え湯をあびせられた蟻のように支那兵は・・・ 黒島伝治 「チチハルまで」
・・・で、自然と同窓生もこの人を仲間はずれにはしながらも内は尊敬するようになって、甚だしい茶目吉一、二人のほかは、無言の同情を寄せるに吝ではなかった。 ところが晩成先生は、多年の勤苦が酬いられて前途の平坦光明が望見せらるるようになった気の弛み・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・ 大尉は弓返りの音をさせて、神経的に笑って、復た沈鬱な無言に返った。 桑畠に働いていた百姓もそろそろ帰りかける頃まで、高瀬は皆なと一緒に時を送った。学士はそこに好い隠れ家を見つけたという風で、愛蔵する鷹の羽の矢が白い的の方へ走る間、・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・口には云わず心配の多い母、自然の足許に、此も無言の裡に悩む一人の娘が、いつまでも立っていました。 彼女を結婚させなければならないと云うことは、スバーの両親にとって、一方ならない苦労でした。近所の人達は、親の責任を果さないと云って、悪く云・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・行かれなくなるような、そんな大事な金で、女房が奥の六畳間で勘定して戸棚の引出しにしまったのを、あのひとが土間の椅子席でひとりで酒を飲みながらそれを見ていたらしく、急に立ってつかつかと六畳間にあがって、無言で女房を押しのけ引出しをあけ、その五・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・けれどこの無言の自然よりも美しい少女の姿の方が好いので、男は前に相対した二人の娘の顔と姿とにほとんど魂を打ち込んでいた。けれど無言の自然を見るよりも活きた人間を眺めるのは困難なもので、あまりしげしげ見て、悟られてはという気があるので、わきを・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・こういうことは作曲者かあるいは指揮者を同伴して演奏会へ行っても容易に得られない無言の解説である。カルメンの中の独唱でも、管弦楽の進行の波頭が指揮者のふりかざした両腕から落ちかかるように独奏者のクローズアップに推移して同時にその歌を呼出すとい・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(5[#「5」はローマ数字、1-13-25])」
・・・娘の兄らしい兵隊は無言で、親爺らしい百姓が頻に詫びた。娘は俯向いてこそこそと降りた。癪に障って忌々しいが叱り飛す張合もない。災難だと諦めた。乗り合わした他の連中は頻に私に同情して、娘とその伴の図々しい間抜な態度を罵った。飛沫を受けたので、眉・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・三人は無言のまま顔を見合せて微かに笑う。「あれは画じゃない、活きている」「あれを平面につづめればやはり画だ」「しかしあの声は?」「女は藤紫」「男は?」「そうさ」と判じかねて髯が女の方を向く。女は「緋」と賤しむごとく答える。「百二十間の廻・・・ 夏目漱石 「一夜」
出典:青空文庫