・・・黙って、何も言わず、無言に地べたに坐りこんで……。それからまた、ずっと長い時間がたった……。目が醒めた時、重吉はまだベンチにいた。そして朦朧とした頭脳の中で、過去の記憶を探そうとし、一生懸命に努めて見た。だが老いて既に耄碌し、その上酒精中毒・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・と、平田は言いかけてしばらく無言。「どうか頼むよ」その声には力があり過ぎるほどだが、その上は言い得なかった。 小万も何とも言い得ないで、西宮の後にうつむいている吉里を見ると、胸がわくわくして来て、涙を溢さずにはいられなかッた。 お梅・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・「諸君、祭司長は、只今既に、無言を以て百千万言を披瀝した。是れ、げにも尊き祭始の宣言である。然しながら、未だ祭司長の云わざる処もある。これ実に祭司長が述べんと欲するものの中の糟粕である。これをしも、祭司次長が諸君に告げんと欲して、敢て咎・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・貴方に対する無言の厭悪が稚いこの遊戯の面に現れ出るとは!L、F、H、LFH、数えなおし、私は笑を失った。かりそめのたわむれとは云え何と云うことか。私は 笑を失った。・・・ 宮本百合子 「海辺小曲(一九二三年二月――)」
・・・ アウシュコルンは無言で立ちどまった。だんだん不安心になって来た。なぜ『大泥棒』とかれを呼んだのだろう。 シュールダンの酒店の卓に座して、かれはまたもや事の一部始終を説きはじめた。 するとモンチヴィエーの馬商がかれに向かって怒鳴・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・ 無言の二人は釘抜で釘を挟んだように腕を攫んだまま、もがく男を道傍の立木の蔭へ、引き摩って往った。 九郎右衛門は強烈な火を節光板で遮ったような声で云った。「己はおとどしの暮お主に討たれた山本三右衛門の弟九郎右衛門だ。国所と名前を言っ・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・ このままでややしばらくの間忍藻は全く無言に支配されていたが、その内に破裂した、次の一声が。「武芸はそのため」 その途端に燈火はふっと消えて跡へは闇が行きわたり、燃えさした跡の火皿がしばらくは一人で晃々。 下・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・が、二人の塊りは無言のまま微かな唸りを吐きつつ突き立って、鈍い振子のように暫く左右に揺れていた。「此の餓鬼めッ。」「くそったれッ。」 勘次の身体は秋三を抱きながら、どっと後の棺を倒して蒲団の上へ顛覆した。安次の半身は棺から俯伏に・・・ 横光利一 「南北」
・・・仰って、いまは、透き通るようなお手をお組みなされ、暫く無言でいらっしゃる、お側へツッ伏して、平常教えて下すった祈願の言葉を二た度三度繰返して誦える中に、ツートよくお寐入なさった様子で、あとは身動きもなさらず、寂りした室内には、何の物音もなく・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・シナの玉についての講義の時に、先生は玉の味が単に色や形にはなくして触覚にあることを説こうとして、適当な言葉が見つからないかのように、ただ無言で右手をあげて、人さし指と中指とを親指に擦りつけて見せた。その時あのギョロリとした眼が一種の潤いを帯・・・ 和辻哲郎 「岡倉先生の思い出」
出典:青空文庫