・・・ 世間はついに、無辜の人を殺しました。そうして閣下自身も、その悪む可き幇助者の一人になられたのでございます。 私は今日限り、当区に居住する事を止めるつもりでございます。無為無能なる閣下の警察の下に、この上どうして安んじている事が出来・・・ 芥川竜之介 「二つの手紙」
・・・ スペインに宗教裁判がもうけられていた当時を見よ。無辜の良民であって、単に教会の信条に服さないとの嫌疑のために焚殺されたものは、幾十万を算するではないか。フランス革命の恐怖時代を見よ。政治上の党派をことにするという故をもって斬罪となった・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・ 西班牙に宗教裁判の設けられたる当時を見よ、無辜の良民にして単に教会の信条に服せずとの嫌疑の為めに焚殺されたる幾十万を算するではない歟。仏国革命の恐怖時代を見よ、政治上の党派を異にすというの故を以て斬罪となれる者、日に幾千人に上れるでは・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・寧ろ一人の無辜を殺すも陸軍の醜辱を掩蔽するに如かずと。而してエミール・ゾーラは蹶然として起てり。彼が火の如き花の如き大文字は、淋漓たる熱血を仏国四千万の驀頭に注ぎ来れる也。 当時若しゾーラをして黙して己ましめんか、彼れ仏国の軍人は遂に一・・・ 幸徳秋水 「ドレフュー大疑獄とエミール・ゾーラ」
・・・世人はひとしく仙之助氏の無辜を信じていたし、当局でも、まさか、鶴見仙之助氏ほどの名士が、愚かな無法の罪を犯したとは思っていなかったようであるが、ひとり保険会社の態度が頗る強硬だったので、とにかく、再び、綿密な調査を開始したのである。 父・・・ 太宰治 「花火」
・・・氷海の無辜の住民たる白熊に対してはソビエト探険隊員は残虐なる暴君として血と生命との搾取者としてスクリーンの上に映写されるのである。 白熊がもしもチンパンジーであったら、この映画の観客に与える情緒は少しちがうであろう。チンパンジーの代わり・・・ 寺田寅彦 「空想日録」
・・・「一無辜を殺して天下を取るも為さず」で、その原因事情はいずれにもせよ、大審院の判決通り真に大逆の企があったとすれば、僕ははなはだ残念に思うものである。暴力は感心ができぬ。自ら犠牲となるとも、他を犠牲にはしたくない。しかしながら大逆罪の企に万・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・女は愚にして目前の利害も知らず、人の己れを誹る可きを弁えず、我家人の禍となる可き事を知らず、漫に無辜の人を恨み怒り云々して其結果却て自身の不利たるを知らず、甚しきは子を育つるの法さえも知らざる程の大愚人大馬鹿者なるゆえに、結論は夫に従う可し・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・これを用いんか、奇計妙策、たちまち実際に行われて、この法を作り、かの律を製し、この条をけずり、かの目を加え、したがって出だせばしたがって改め、無辜の人民は身の進退を貸して他の草紙に供するが如きことあらん。国のために大なる害なり。あるいはこれ・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・この一家の醜体を現に子供に示して、明らかにこれに傚えと口に唱えざるも、その実は無辜の小児を勧めて醜体に導くものなり。これを譬えば、毒物を以て直にこれを口に喰らわしめずして、その毒を瓦斯に製し空気に混じて吸入せしむるが如し。これを無情といわざ・・・ 福沢諭吉 「教育の事」
出典:青空文庫