・・・耳に響くはただ身を焼く熱に湧く血の音と、せわしい自分の呼吸のみである。何者とも知れぬ権威の命令で、自分は未来永劫この闇の中に封じ込められてしまったのだと思う。世界の尽きる時が来ても、一寸もこの闇の外に踏み出すことは出来ぬ。そしていつまで経っ・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・ Iの家の二階や階下の便所の窓からは、幅三尺の路地を隔てた竹葉の料理場でうなぎを焼く団扇の羽ばたきが見え、音が聞こえ、においが嗅がれた。毘沙門かなんかの縁日にはI商店の格子戸の前に夜店が並んだ。帳場で番頭や手代や、それからむすこのSちゃ・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・朝夕の秋風身にしみわたりて、上清が店の蚊遣香懐炉灰に座をゆづり、石橋の田村やが粉挽く臼の音さびしく、角海老が時計の響きもそぞろ哀れの音を伝へるやうになれば、四季絶間なき日暮里の火の光りもあれが人を焼く烟かとうら悲しく、茶屋が裏ゆく土手下の細・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・ 衰えは春野焼く火と小さき胸を侵かして、愁は衣に堪えぬ玉骨を寸々に削る。今までは長き命とのみ思えり。よしやいつまでもと貪る願はなくとも、死ぬという事は夢にさえ見しためしあらず、束の間の春と思いあたれる今日となりて、つらつら世を観ずれば、・・・ 夏目漱石 「薤露行」
発電所の掘鑿は進んだ。今はもう水面下五十尺に及んだ。 三台のポムプは、昼夜間断なくモーターを焼く程働き続けていた。 掘鑿の坑夫は、今や昼夜兼行であった。 午前五時、午前九時、正午十二時、午後三時、午後六時には取・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・そんな風にしていましたから、人の世話ばかり焼くイソダンの人達も、わたくしの所へあなたのいらっしゃるのをなんとも申さないで、あれは二親の交際した内だから尋ねて往くのだと申していましたのです。 しかしわたくしがそんな気でいましたから、あなた・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・はれ親なし髪しろくなりても親のある人もおほかるものをわれは親なし 母の三十七年忌にはふ児にてわかれまつりし身のうさは面だに母を知らぬなりけり 古書を読みて真男鹿の肩焼く占にうらとひて事あきらめし神代をぞ思・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・草を焼くにおいがして、霧の中を煙がぼうっと流れています。 一郎のにいさんが叫びました。「おじいさん。いだ、いだ。みんないだ。」 おじいさんは霧の中に立っていて、「ああ心配した、心配した。ああよがった。おお嘉助。寒がべあ、さあ・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・ われの家われと焼くが何でえけねえ、どかねえと打っ殺すぞ」 馬さんその他上って来て、種々仲裁したが、勇吉はなかなかきかない。「おらあ、火いつけりゃあ牢にへえる位知ってるだ! ああ知ってするごんだよ、だから放っといてくんろ、畜生! 面・・・ 宮本百合子 「田舎風なヒューモレスク」
・・・働いたものは血によごれている、小屋を焼く手伝いばかりしたものは、灰ばかりあびている。その灰ばかりあびた中に、畑十太夫がいた。光尚が声をかけた。「十太夫、そちの働きはどうじゃった」「はっ」と言ったぎり黙って伏していた。十太夫は大兵の臆・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫