・・・それが今年の春頃から、何ともつかずに煩い出した。咳が出る、食欲が進まない、熱が高まると言う始末である、しのは力の及ぶ限り、医者にも見せたり、買い薬もしたり、いろいろ養生に手を尽した。しかし少しも効験は見えない。のみならず次第に衰弱する。その・・・ 芥川竜之介 「おしの」
・・・「…………」「国へ、国へ帰しやしないから。」「あれ、お待ちなさい伯母さんが。」「どうした、どうしたよ。」 という母の声、下に聞えて、わっとばかり、その譲という児が。「煩いねえ!ちょいと、見て来ますからね、謹さん。」・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・ 幕府の時分旗本であった人の女で、とある楼に身を沈めたのが、この近所に長屋を持たせ廓近くへ引取って、病身な母親と、長煩いで腰の立たぬ父親とを貢いでいるのがあった。 八 少なからぬ借金で差引かれるのが多いのに、・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・去年まず検事補に叙せられたのが、今年になって夏のはじめ、新に大審院の判事に任ぜられると直ぐに暑中休暇になったが、暑さが厳しい年であったため、痩せるまでの煩いをしたために、院が開けてからも二月ばかり病気びきをして、静に療養をしたので、このごろ・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・……煩いよ。」 などと言いながら、茶碗に装って、婦たちは露地へ廻る。これがこのうえ後れると、勇悍なのが一羽押寄せる。馬に乗った勢で、小庭を縁側へ飛上って、ちょん、ちょん、ちょんちょんと、雀あるきに扉を抜けて台所へ入って、お竈の前を廻るか・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・目を少々お煩いのようで、雪がきらきらして疼むからと言って、こんな土地でございます、ほんの出来あいの黒い目金を買わせて、掛けて、洋傘を杖のようにしてお出掛けで。――これは鎮守様へ参詣は、奈良井宿一統への礼儀挨拶というお心だったようでございます・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・大方は目の煩いだろう。 トラホームなぞだと困る、と、その涙をとにかく内側へ深く折込んだ、が。――やがて近江屋へ帰って、敷石を奥へ入ると、酒の空樽、漬もの桶などがはみ出した、物置の戸口に、石屋が居て、コトコトと石を切る音が、先刻期待した小・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・平生からの処へ、今度煩い附きまして、もう二月三月、十日ばかり前から、また大変に悩みますので、医者と申しましても、三里も参らねばなりませぬ。薬も何も貴方何の病気だか、誰にも考えが附きませぬので、ただもう体の補いになりますようなものを食べさして・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・朗快な太陽の光は、まともに庭の草花を照らし、花の紅紫も枝葉の緑も物の煩いということをいっさい知らぬさまで世界はけっして地獄でないことを現実に証明している。予はしばらく子どもらをそっちのけにしていたことに気づいた。「お父さんすぐ九十九里へ・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・とキリストがいったように、思想そのものは実は「思い煩い」であり、袋路である。はてしなき迷路である。知識階級とは、この意味においては、永遠の懐疑の階級なのである。立命のためには知性そのものを超克しなくてはならぬ。知性を否定して端的に啓示そのも・・・ 倉田百三 「学生と読書」
出典:青空文庫