・・・病人も夜長の枕元に薬を煮る煙を嗅ぎながら、多年の本望を遂げるまでは、どうかして生きていたいと念じていた。 秋は益深くなった。喜三郎は蘭袋の家へ薬を取りに行く途中、群を成した水鳥が、屡空を渡るのを見た。するとある日彼は蘭袋の家の玄関で、や・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・この知人と云うのも、その日暮しの貧乏人なのでございますが、絹の一疋もやったからでございましょう、湯を沸かすやら、粥を煮るやら、いろいろ経営してくれたそうでございます。そこで、娘も漸く、ほっと一息つく事が出来ました。」「私も、やっと安心し・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・二人は喰い終ってから幾度も固唾を飲んだが火種のない所では南瓜を煮る事も出来なかった。赤坊は泣きづかれに疲れてほっぽり出されたままに何時の間にか寝入っていた。 居鎮まって見ると隙間もる風は刃のように鋭く切り込んで来ていた。二人は申合せたよ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・――少し余分に貰いたい、ここで煮るように……いいかい。」「はい、そう申します。」「ついでにお銚子を。火がいいから傍へ置くだけでも冷めはしない。……通いが遠くって気の毒だ。三本ばかり一時に持っておいで。……どうだい。岩見重太郎が註文を・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・昆布屋の前を通る時、塩昆布を煮るらしい匂いがプンプン鼻をついた。ガラスの簾を売る店では、ガラス玉のすれる音や風鈴の音が涼しい音を呼び、櫛屋の中では丁稚が居眠っていました。道頓堀川の岸へ下って行く階段の下の青いペンキ塗の建物は共同便所でした。・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ 山椒昆布を煮る香いで、思い切り上等の昆布を五分四角ぐらいの大きさに細切りして山椒の実と一緒に鍋にいれ、亀甲万の濃口醤油をふんだんに使って、松炭のとろ火でとろとろ二昼夜煮つめると、戎橋の「おぐらや」で売っている山椒昆布と同じ位のうまさに・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・まかせ、これを助けて働く者はお絹お常とて一人は主人の姪、一人は女房の姪、お絹はやせ形の年上、お常は丸く肥りて色白く、都ならば看板娘の役なれどこの二人は衣装にも振りにも頓着なく、糯米を磨ぐことから小豆を煮ること餅を舂くことまで男のように働き、・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・元よりなりと答う。煮るかと云うに、いや生こそ殊にうましなぞと口より出まかせに饒舌りちらせば、亭主、さらば一升まいらせむ、食いたまえと云う。その面つきいと真面目なれば逃げんとしたれども、ふと思い付きて、まず殻をとりてたまわれと答えける。亭主噴・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・ 六 藁が真綿になる話 藁にある薬品を加えて煮るだけでこれを真綿に変ずる方法を発明したと称して、若干の資本家たちに金を出させた人がある。ところがそれが詐偽だという事になって検挙され、警視庁のお役人たちの前で「実験」を・・・ 寺田寅彦 「路傍の草」
・・・傾きやすき冬日の庭に塒を急ぐ小禽の声を聞きつつ梔子の実を摘み、寒夜孤燈の下に凍ゆる手先を焙りながら破れた土鍋にこれを煮る時のいいがたき情趣は、その汁を絞って摺った原稿罫紙に筆を執る時の心に比して遥に清絶であろう。一は全く無心の間事である。一・・・ 永井荷風 「十日の菊」
出典:青空文庫