・・・近代の忙だしい騒音や行き塞った苦悶を描いた文芸の鑑賞に馴れた眼で見るとまるで夢をみるような心地がするが、さすがにアレだけの人気を買った話上手な熟練と、別してドッシリした重味のある力強さを感ぜしめるは古今独歩である。 二 ・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・活な批評眼を備えていた人、ありていに言えば天稟の直覚力が鋭利である上に、郷党が不思議がればいよいよ自分もよけいに人の気質、人の運命などに注意して見るようになり、それがおもしろくなり、自慢になり、ついに熟練になったのである。彼は決して卜者では・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・ その鉄砲は旧式で粗末なものであるがこれを使用する技術は多年の熟練でなかなか巧みなものである。別して鹿狩りについてはつの字崎の地理に詳しく犬を使うことが上手ゆえ、われら一同の叔父たちといえども、素人の仲間での黒人ながら、この連中に比べて・・・ 国木田独歩 「鹿狩り」
・・・そうして奥の一部屋で熟練のお弟子が二人、ミシンをカタカタと動かしている。北さんは、特定のおとくいさんの洋服だけを作るのだ。名人気質の、わがままな人である。富貴も淫する能わずといったようなところがあった。私の父も、また兄も、洋服は北さんに作っ・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・それが、多年の熟練の結果であろうが、はじめひょいと載せただけでもう第一近似的にはちゃんと正しい位置におかれている、それで、あとはただこの団塊をしっかり台板に押しつけ固着させるための操作を兼ねて同時にほんの少しの第二近似を行なうだけである。さ・・・ 寺田寅彦 「空想日録」
・・・この測夫の熟練のいかんによって観測作業の進捗が支配されるのである。ある時向こうの山頂の回照器がいつまで待っても光を送らない。信号をしても返事がない。行って見ると櫓から落ちて死んでいた。深山にただ一人だから行って見るまでわからなかったし、死因・・・ 寺田寅彦 「地図をながめて」
・・・昔の物理学者らが一名を電子と称するテルの矢のねらいは熟練と注意とによって無限に精確になりうると考えたに反して、新しい物理学者は到底越え難いある「不確定」の限界を認容することになった。いわば昔はただ主観の不確定性だけを認めて客観の絶対確定性を・・・ 寺田寅彦 「野球時代」
・・・五十年間案内者を専門に修業したものでもあるまいが非常に熟練したものである。何年何月何日にどうしたこうしたとあたかも口から出任せに喋舌っているようである。しかもその流暢な弁舌に抑揚があり節奏がある。調子が面白いからその方ばかり聴いていると何を・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・投者攫者二人は場中最枢要の地を占むる者にして最も熟練を要する役目とす。短遮は投者と第三基の中ほどにあり、打者の打ちたる球を遮り止め直ちに第一基に向って投ずるを務とす。この位置は打者の球の多く通過する道筋なるをもって特にこの役を置く者にして短・・・ 正岡子規 「ベースボール」
・・・ええボートはきっと助かったにちがいありません、何せよほど熟練な水夫たちが漕いですばやく船からはなれていましたから。」 そこらから小さないのりの声が聞えジョバンニもカムパネルラもいままで忘れていたいろいろのことをぼんやり思い出して眼が熱く・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
出典:青空文庫