・・・うす暗い中に、その歩衝と屏風との金が一重、燻しをかけたように、重々しく夕闇を破っている。――僕は、この簡素な舞台を見て非常にいい心もちがした。「人形には、男と女とあってね、男には、青頭とか、文字兵衛とか、十内とか、老僧とか云うのがある。・・・ 芥川竜之介 「野呂松人形」
・・・それにつけても人一人身投げをさせて見ているような、鬼婆と一しょにいるのじゃ、今にもお敏は裸のまま、婆娑羅の大神が祭ってある、あの座敷の古柱へ、ぐるぐる巻に括りつけられて、松葉燻しぐらいにはされ兼ねますまい。そう思うともう新蔵は、おちおち寝て・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ 織次は、小児心にも朝から気になって、蚊帳の中でも髣髴と蚊燻しの煙が来るから、続けてその翌晩も聞きに行って、汚い弟子が古浴衣の膝切な奴を、胸の処でだらりとした拳固の矢蔵、片手をぬい、と出し、人の顋をしゃくうような手つきで、銭を強請る、爪・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ 渋色の逞しき手に、赤錆ついた大出刃を不器用に引握って、裸体の婦の胴中を切放して燻したような、赤肉と黒の皮と、ずたずたに、血筋を縢った中に、骨の薄く見える、やがて一抱もあろう……頭と尾ごと、丸漬にした膃肭臍を三頭。縦に、横に、仰向けに、・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・そのなかには肌脱ぎになった人がいたり、柱時計が鳴っていたり、味気ない生活が蚊遣りを燻したりしていた。そのうえ、軒燈にはきまったようにやもりがとまっていて彼を気味悪がらせた。彼は何度も袋路に突きあたりながら、――そのたびになおさら自分の足音に・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・おげんは娘から勧められた煙管の吸口を軽く噛み支えて、さもうまそうにそれを燻した。子の愛に溺れ浸っているこの親しい感覚は自然とおげんの胸に亡くなった旦那のことをも喚び起した。妻として尊敬された無事な月日よりも、苦い嫉妬を味わせられた切ない月日・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・高瀬は癖のように肩を動って、甘そうに煙草を燻して、楼階を降りては生徒を教えに行った。 ある日、高瀬は受持の授業を終って、学士の教室の側を通った。学士も日課を済ましたところであったが、まだ机の前に立って何か生徒に説明していた。机の上には大・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・煙草好きな彼は更に新しい紙巻を取出して、それを燻して見せて、自分は今それほど忙しくないという意味を示したが、原の方ではそうも酌らなかった。「乙骨君は近頃なかなか壮んなようだねえ」 と不図思出したように、原は戸口のところに立って尋ねた・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・など昔見たときは随分けばけばしい生ま生ましいもののような気がしたのに、今日見ると、時の燻しがかかったのか、それとも近頃の絵の強烈な生ま生ましさに馴れたせいか、むしろ非常に落着いたいい気持のするのは妙なものである。坂本繁二郎氏のセガンチニを草・・・ 寺田寅彦 「二科展院展急行瞥見記」
・・・ 一目見た時に銀に見える色も雲のあつい所は燻し銀の様に又は銀の箔の様にちっとも雲のない様な所には銀を水晶で包んだ輝きを持って居る。 太陽のよくさす部分は銀器を日向で見る様にこまかい五色の色の分るのが有るのさえわかる。 紺青の色も・・・ 宮本百合子 「旅へ出て」
出典:青空文庫