・・・ そう云う内に香炉からは、道人の燻べた香の煙が、明い座敷の中に上り始めた。 四 道人は薄赤い絹を解いて、香炉の煙に一枚ずつ、中の穴銭を燻じた後、今度は床に懸けた軸の前へ、丁寧に円い頭を下げた。軸は狩野派が描・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・飾の鳥には、雉子、山鶏、秋草、もみじを切出したのを、三重、七重に――たなびかせた、その真中に、丸太薪を堆く烈々と燻べ、大釜に湯を沸かせ、湯玉の霰にたばしる中を、前後に行違い、右左に飛廻って、松明の火に、鬼も、人も、神巫も、禰宜も、美女も、裸・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ すると件の書生は、先生の序文で光彩を添えようというのじゃない、我輩の作は面白いから先生も小説が好きなら読んで見て、面白いと思ったら序文をお書きなさい、ツマラナイと思ったら竈の下へ燻べて下さいと、言終ると共に原稿一綴を投出してサッサと帰・・・ 内田魯庵 「露伴の出世咄」
・・・睡れずに過した朝は、暗いうちから湿った薪を炉に燻べて、往来を通る馬子の田舎唄に聴惚れた。そして周囲のもの珍しさから、午後は耕太郎を伴れて散歩した。蕗の薹がそこらじゅうに出ていた。裏の崖から田圃に下りて鉄道線路を越えて、遠く川の辺まで寒い風に・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・というんで、秋山大尉がその手紙を奥さんの目の前で皆な火に燻べて了った。それで奥さんの方も気が弛んだ。 秋山大尉は、そうと油断さしておいて、或日××河へ飛込んだがだ。河畔の柳の樹に馬を繋いで、鉛筆で遺書を書いてそいつを鞍に挟んでおいて、自・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・お絹は手炙りに煙草火をいけて、白檀を燻べながら、奥の室の庭向きのところへ座蒲団を直して、「ここへ来ておあがんなさい」と言うので、道太は長火鉢の傍を離れて、そこへ行って坐った。「今日は辰之助を呼んで鶴来へでも遊びに行こうじゃないか」道・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・「火ん中へ燻べて了うた。」「燻べた!」「邪魔になって仕様がない。」「たあいもない。どうや、あんな物燻べて何んにもならんやないか!」「もう半分気が触れてるのやぞ。」とお留は云った。 二人は暫く安次の痩せ衰えた顔を黙って・・・ 横光利一 「南北」
・・・既に金網をもって防戦されたことを知った心臓は、風上から麦藁を燻べて肺臓めがけて吹き流した。煙は道徳に従うよりも、風に従う。花壇の花は終日濛々として曇って来た。煙は花壇の上から蠅を追い散らした勢力よりも、更に数倍の力をもって、直接腐った肺臓を・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫