・・・しかしちょっと気を変えて呑気でいてやれと思うと同時に、その暗闇は電燈の下では味わうことのできない爽やかな安息に変化してしまう。 深い闇のなかで味わうこの安息はいったいなにを意味しているのだろう。今は誰の眼からも隠れてしまった――今は巨大・・・ 梶井基次郎 「闇の絵巻」
・・・私は幼い時よくそれを口に入れては父母に叱られたものだが、その幼時のあまい記憶が大きくなって落ち魄れた私に蘇えってくる故だろうか、まったくあの味には幽かな爽やかななんとなく詩美と言ったような味覚が漂って来る。 察しはつくだろうが私にはまる・・・ 梶井基次郎 「檸檬」
・・・ 大工は名を藤吉と申しましたが、やはり江戸の職人という気風がどこまでもついて廻わり、様子がいなせで弁舌が爽やかで至極面白い男でございました。ただ容貌はあまり立派ではございません、鼻の丸い額の狭いなどはことに目につきました。笑う時はどこか・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・と主人は爽やかに笑った。が、その笑声の終らぬ中に、客はフト気中りがして、鵞鳥が鋳損じられた場合を思った。デ、好い図ですネ、と既に言おうとしたのを呑んでしまった。 主人は、「気中りがしてもしなくても構いませんが、ただ心配なのは御前・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・ゆるして下さるそうです。」爽やかに笑っている。「は、いや。」私は意味不明の事を言った。 廊下を出たら、大隅君がズボンに両手を突込んで仏頂面してうろうろしていた。私は大隅君の背中をどんと叩いて、「君は仕合せものだぞ。上の姉さんが君・・・ 太宰治 「佳日」
・・・むかしの女は、奴隷とか、自己を無視している虫けらとか、人形とか、悪口言われているけれど、いまの私なんかよりは、ずっとずっと、いい意味の女らしさがあって、心の余裕もあったし、忍従を爽やかにさばいて行けるだけの叡智もあったし、純粋の自己犠牲の美・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・血のつながりというものは、少し濃すぎて、べとついて、かなわないところがあるけれど、乳兄弟ってのは、乳のつながりだ。爽やかでいいね。ああ、きょうはよかった。」そんなこと言って、なんとかして当面の切なさから逃れたいと努めてみるのだが、なにせ、ど・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・殺の仕方は、少しも高慢の影は無く、ひとりひとり違った心の表情も認められず、一様にうつむいてせっせと事務を執っているだけで、来客の出入にもその静かな雰囲気は何の変化も示さず、ただ算盤の音と帳簿を繰る音が爽やかに聞こえて、たいへん気持のいい眺め・・・ 太宰治 「東京だより」
・・・へとへとになるまで続けると、何か脱皮に似た爽やかさが感ぜられ、これだと思ったとたんに、やはりあのトカトントンが聞えるのです。あのトカトントンの音は、虚無の情熱をさえ打ち倒します。 もう、この頃では、あのトカトントンが、いよいよ頻繁に聞え・・・ 太宰治 「トカトントン」
・・・むかしから、ちゃんと泥沼が、明確にえぐられて在るのだと、そう思ったら、かえって心が少しすがすがしく、爽やかに安心して、こんな醜い吹出物だらけのからだになっても、やっぱり何かと色気の多いおばあちゃん、と余裕を持って自身を憫笑したい気持も起り、・・・ 太宰治 「皮膚と心」
出典:青空文庫