・・・(衆生済度傍に千万巻の経典を積んでも、自分の知識は「道徳の底に自己あり」という一言でこれを斥ける勇気を持っている。而してこの知識が私をして普通道徳の前に諦めをつけさせる、しかたがないと思わせる。それ以上、自分に取っては普通道徳は何ら崇高の意・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・ 婆あさんは、目を小さくして老人の顔を見ていたが、一足傍へ歩み寄って、まだ詞の口から出ないうちに笑いかけて云った。「お前さんはケッセル町の錠前屋のロオレンツさんじゃあないか。」「うん。そうだ。こないだじゅうは工場で働いていたのだが、・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・章坊は、「今度は電話だ」と言って、二つの板紙の筒を持って出てくる。筒の底には紙が張ってあって、長い青糸が真ん中を繋いでいる。勧工場で買ったのだそうである。章坊は片方の筒を自分に持たせて、しばらく何かしら言って、「ね、解ったでしょう?・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・往く時も帰る時も、なりたけお前さんの傍に引っ付いているようにしたのだわ。なんでもお前さんを敵にすると大変だと思ったので、わたし友達になったのよ。でもどうも仲がしっくり行かなかったのね。お前さんが内へ来ると、あの人がなんだか困ったような様子を・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・彼女の悲しそうな静かな眼つきから察しるようでした。彼女の傍によって来てやさしく角を腕などになすりつけ、言葉に云えない途方に暮れた様子で、慰めようとするのでした。 此等二匹の牛のほかに、山羊や小猫もいました。けれども、スバーは、牛共に対す・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・のときには、ひとり、ひとりお膳に向って坐り、祖母、母、長兄、次兄、三兄、私という順序に並び、向う側は、帳場さん、嫂、姉たちが並んで、長兄と次兄は、夏、どんなに暑いときでも日本酒を固執し、二人とも、その傍に大型のタオルを用意させて置いて、だら・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・部屋に這入って見ると、机の上に鹿の角や花束が載っていて、その傍に脱して置いて出た古襟があった。窓を開けて、襟を外へ投げた。それから着物を脱いで横になった。しかし今一つ例の七ルウブルの一ダズンの中の古襟のあったことを思い出したから、すぐに起き・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・道が村山瀦水池のある丘陵の南麓へ向けて一直線に走っている。無論参謀本部の五万分一地図にはないほど新しい道路である。道傍の畑で芋を掘上げている農夫に聞いて、見失った青梅への道を拾い上げることが出来た。地図をあてにする人間が地図にない道に出逢っ・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・道路の傍には松の生い茂った崖が際限もなく続いていた。そしてその裾に深い叢があった。月見草がさいていた。「これから夏になると、それあ月がいいですぜ」桂三郎はそう言って叢のなかへ入って跪坐んだ。 で、私も青草の中へ踏みこんで、株に腰をお・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・そこには、洋服は洋服だが、椰子の木の生えたひろい畑の隅に、跣足で柄の長い鍬をもった林のお父さんと、傍に籠をもってしゃがんでいるお母さんとがならんでいた。「とても働いたんだネ、働いて金持になって、今のお店を作ったんだ」「フーム」「・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
出典:青空文庫