・・・その長い影をひきながら、頭に桶をのせた物売りの女が二人、簾の目を横に、通りすぎる。一人は手に宿への土産らしい桜の枝を持っていた。「今、西の市で、績麻のみせを出している女なぞもそうでございますが。」「だから、私はさっきから、お爺さんの・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・彼はいよいよ悪意のある運命の微笑を感じながら、待合室の外に足を止めた物売りの前へ歩み寄った。緑いろの鳥打帽をかぶった、薄い痘痕のある物売りはいつもただつまらなそうに、頸へ吊った箱の中の新聞だのキャラメルだのを眺めている。これは一介の商人では・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・ときどき町の人通りのたくさんな、にぎやかな巷の方から、なにか物売りの声や、また、汽車の行く音のような、かすかなとどろきがきこえてくるばかりであります。 おばあさんは、いま自分はどこにどうしているのかすら、思いだせないように、ぼんやりとし・・・ 小川未明 「月夜とめがね」
・・・普通で、下りも同様、自然伏見は京大阪を結ぶ要衝として奉行所のほかに藩屋敷が置かれ、荷船問屋の繁昌はもちろん、船宿も川の東西に数十軒、乗合の三十石船が朝昼晩の三度伏見の京橋を出るころは、番頭女中のほかに物売りの声が喧しかった。あんさん、お下り・・・ 織田作之助 「螢」
・・・日蔭は磧に伸び、物売りのラッパが鳴っていた。 五 喬は夜更けまで街をほっつき歩くことがあった。 人通りの絶えた四条通は稀に酔っ払いが通るくらいのもので、夜霧はアスファルトの上までおりて来ている。両側の店はゴミ箱を・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・私たちの住む家は西側の塀を境に、ある邸つづきの抜け道に接していて、小高い石垣の上を通る人の足音や、いろいろな物売りの声がそこにも起こった。どこの石垣のすみで鳴くとも知れないような、ほそぼそとした地虫の声も耳にはいる。私は庭に向いた四畳半の縁・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・それに私も加わり、暫く、黙って酒を飲んで居ると、表はぞろぞろ人の行列の足音、花火が上り、物売りの声、たまりかねたか江島さんは立ち上り、行こう、狩野川へ行こうよ、と言い出し、私達の返事も待たずに店から出てしまいました。三人が、町の裏通りばかり・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・ドンジャンの鐘太鼓も聞えず、物売りの声と参詣人の下駄の足音だけが風の音にまじって幽かに聞える。「君は大将でしょうね。見せ物の大将に違いないでしょうね。」先生は、何事も意に介さぬという鷹揚な態度で、その大将にお酌をなされた。「は、いや・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・ 祭司長や民の長老たちが、大祭司カヤパの中庭にこっそり集って、あの人を殺すことを決議したとか、私はそれを、きのう町の物売りから聞きました。もし群集の目前であの人を捕えたならば、あるいは群集が暴動を起すかも知れないから、あの人と弟子たちと・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・桟橋にはいろいろの物売りが出ている。籐のステッキ、更紗、貝がら、貝細工、菊形の珊瑚礁、鸚鵡貝など。 出帆が近くなると甲板は乗客と見送りでいっぱいになった。けさ乗り込んだ二等客の子供だけが四十二人あるとハース氏が言う。神戸で乗った時は全体・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
出典:青空文庫