・・・ 自分が物心づくころからすでにもうかなりのおばあさんであって、そうして自分の青年時代に八十余歳でなくなるまでやはり同じようなおばあさんのままで矍鑠としていたB家の伯母は、冬の夜長に孫たちの集まっている燈下で大きなめがねをかけて夜なべ仕事・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・そうして災害当時まだ物心のつくか付かぬであった人達が、その今から三十七年後の地方の中堅人士となっているのである。三十七年と云えば大して長くも聞こえないが、日数にすれば一万三千五百五日である。その間に朝日夕日は一万三千五百五回ずつ平和な浜辺の・・・ 寺田寅彦 「津浪と人間」
・・・ 私の家では自分の物心ついて以来かつて猫を飼った事はなかった。第一私の母が猫という猫を概念的に憎んでいた。親類の家にも、犬はいても飼い猫は見られなかった。猫さえ見れば手当たり次第にものを投げつけなければならない事のように思っていた。ある・・・ 寺田寅彦 「ねずみと猫」
・・・私が物心ついてからの春田は、ほとんどいつ行っても絵をかいているか書を習っていた。かきながら楊枝を縦に口の中へ立てたのをかむ癖があった。当時のいわゆる文人墨客の群れがしばしばその家に会しては酒をのんで寄せがきをやっていたりした。一方ではまた当・・・ 寺田寅彦 「亮の追憶」
子供の時分から病弱であった私は、物心がついてから以来ほとんど医者にかかり通しにかかっていたような漠然とした記憶がある。幸いに命を取り止めて来た今日でもやはり断えず何かしら病気をもっていない時はないように思われる。簡単なラテ・・・ 寺田寅彦 「笑い」
・・・ ツルゲネーフはまだ物心もつかぬ子供の時分に、樹木のおそろしく生茂った父が屋敷の庭をさまよって、或る夏の夕方に、雑草の多い古池のほとりで、蛇と蛙の痛しく噛み合っている有様を見て、善悪の判断さえつかない幼心に、早くも神の慈悲心を疑った……・・・ 永井荷風 「狐」
・・・それはおおかた嘘だろうと思う。物心がついてからは全く芝居には足を入れなかった。しかし自分の兄共は揃も揃って芝居好で、家にいると不断仮色などを使っているから、自分はこの仮色を通して役者を知っていた。それから今日までに団十郎をたった一遍見た事が・・・ 夏目漱石 「明治座の所感を虚子君に問れて」
・・・もし一人の女が、金にこそ不自由ないが、そのような生理的欠陥を体にもって二十八歳まで生きて来たのが事実とすれば、少くとも過去十数年、富美子というひとはどのように苦しい心持を経験したことであったろうか。物心ついて、自身の肉体の普通でない欠陥に気・・・ 宮本百合子 「昨今の話題を」
・・・彼女は何と云っても女性文化史の上に特*ある一点を描く人だが、最初に、自分が物心ついてから或る感激を以て聴き記憶した第一の言葉は自由、正義と云う文句だ、と云うような意味を書いている。さて本当に子供の自分が其那ことを明瞭に感じたのだったろうか、・・・ 宮本百合子 「新緑」
・・・のように話すのであったが、ゴーリキイが物心つくとからその中に揉まれ、それと闘って来た現実生活の下で、彼は「このような民衆を知らなかった。」 この事実こそ、最も明白にナロードニキの学生達の善意はあるが、抽象的な世界観の内容とゴーリキイの現・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
出典:青空文庫