・・・鉄漿溝は泡立ッたまま凍ッて、大音寺前の温泉の烟は風に狂いながら流れている。一声の汽笛が高く長く尻を引いて動き出した上野の一番汽車は、見る見る中に岡の裾を繞ッて、根岸に入ッたかと思うと、天王寺の森にその煙も見えなくなッた。 この文を読・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・ 恋の糸と誠の糸を横縦に梭くぐらせば、手を肩に組み合せて天を仰げるマリヤの姿となる。狂いを経に怒りを緯に、霰ふる木枯の夜を織り明せば、荒野の中に白き髯飛ぶリアの面影が出る。恥ずかしき紅と恨めしき鉄色をより合せては、逢うて絶えたる人の心を・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ しかし先生の告別の辞は十二日に立つと立たないとで変わるわけもなし、私のそれにつけ加えた蛇足な文句も、先生の去留によってその価値に狂いが出てくるはずもないのだから、われわれは書いたこと言ったことについて取り消しをだす必要は、もとより認め・・・ 夏目漱石 「戦争からきた行き違い」
・・・鉄漿溝は泡立ッたまま凍ッて、大音寺前の温泉の煙は風に狂いながら流れている。 一声の汽笛が高く長く尻を引いて動き出した上野の一番汽車は、見る見るうちに岡の裾を繞ッて、根岸に入ッたかと思うと、天王寺の森にその煙も見えなくなッた。 窓の鉄・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・の役人、学者も医者も寺の和尚も、衣食既に足りて其以上に何等の所望と尋ぬれば、至急の急は則ち性慾を恣にするの一事にして、其方法に陰あり陽あり、幽微なるあり顕明なるあり、所謂浮気者は人目も憚らずして遊廓に狂い芸妓に戯れ、醜体百出人面獣行、曾て愧・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・こいつらは人の眼には見えないのですが、一ぺん風に狂い出すと、台地のはずれの雪の上から、すぐぼやぼやの雪雲をふんで、空をかけまわりもするのです。「しゅ、あんまり行っていけないったら。」雪狼のうしろから白熊の毛皮の三角帽子をあみだにかぶり、・・・ 宮沢賢治 「水仙月の四日」
・・・ まちかねて気の狂いそうなものさえある!第二の精霊 お主の心の花の咲くのをまちかねて居るのじゃ、幼子の様なお主の瞳にかがやきのそわるのをまちかねて居るのじゃ。第三の精霊はかるくふるえながら木のかげから出て来る。精女、二人の精・・・ 宮本百合子 「葦笛(一幕)」
・・・患者たちの体温表は狂い出した。 しかし、この肺臓と心臓との戦いはまだ続いた。既に金網をもって防戦されたことを知った心臓は、風上から麦藁を燻べて肺臓めがけて吹き流した。煙は道徳に従うよりも、風に従う。花壇の花は終日濛々として曇って来た。煙・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・勿論何のことか判然聞取なかったんですが、ある時茜さす夕日の光線が樅の木を大きな篝火にして、それから枝を通して薄暗い松の大木にもたれていらっしゃる奥さまのまわりを眩く輝かさせた残りで、お着衣の辺を、狂い廻り、ついでに落葉を一と燃させて行頃何か・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・ もし先刻の事件をもって推論することが許されるなら、私は恐らく恐怖と呪詛とで狂い立つばかりだろう。しようと思う仕事はまだ何一つできていない。昇ろうと思う道はまだやっと昇り始めたばかりだ。今死んでは今まで生きたことがまるきり無意味になる。・・・ 和辻哲郎 「停車場で感じたこと」
出典:青空文庫