・・・始めは自分の馬の鼻が相手の馬の尻とすれすれになっていたが、やがて一歩一歩二頭の距離は縮まった。狂気のような喚呼が夢中になった彼れの耳にも明かに響いて来た。もう一息と彼れは思った。――その時突然桟敷の下で遊んでいた松川場主の子供がよたよたと埒・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・フランシスが狂気になったという噂さも、父から勘当を受けて乞食の群に加わったという風聞も、クララの乙女心を不思議に強く打って響いた。フランシスの事になるとシッフィ家の人々は父から下女の末に至るまで、いい笑い草にした。クララはそういう雑言を耳に・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・それが夜ででもあればだが、真昼中狂気染みた真似をするのであるから、さすがに世間が憚られる、人の見ぬ間を速疾くと思うのでその気苦労は一方ならなかった。かくてともかくにポストの三めぐりが済むとなお今一度と慥めるために、ポストの方を振り返って見る・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・ 七「実に、寸毫といえども意趣遺恨はありません。けれども、未練と、執着と、愚癡と、卑劣と、悪趣と、怨念と、もっと直截に申せば、狂乱があったのです。 狂気が。」 と吻と息して、……「汽車の室内で隣合って一目・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・三十面をさげてはあのような美しい狂気じみた恋は出来まいと思われるのである。よしんば恋はしても、薄汚なくなんだか気味が悪いようである。私の知人に今年四十二歳の銀行員がいるが、この人は近頃私に向って「僕は今恋をしているのです」と語って、大いに私・・・ 織田作之助 「髪」
・・・――人々はもはや耳かきですくうほどの理性すら無くしてしまい、場内を黒く走る風にふと寒々と吹かれて右往左往する表情は、何か狂気じみていた。 寺田はしかしそんなあたりの空気にひとり超然として、惑いも迷いもせず、朝の最初の競走から1の番号の馬・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・祝言の席の仕草も想い合わされて、登勢はふと眼を掩いたかったが、しかしまた、そんな狂気じみた神経もあるいは先祖からうけついだ船宿をしみ一つつけずにいつまでも綺麗に守って行きたいという、後生大事の小心から知らず知らず来た業かもしれないと思えば、・・・ 織田作之助 「螢」
・・・かれは狂気のごとくその大杯を振りまわした。この時自分の口を衝いて出た叫声は、 天皇陛下万歳! 国木田独歩 「遺言」
・・・しかるに叔父さんもその希望が全くなくなったがために、ほとんど自棄を起こして酒も飲めば遊猟にもふける、どことなく自分までが狂気じみたふうになられた。それで僕のおとっさんを始めみんな大変に気の毒に思っていられたのである。 ところが突然鉄也さ・・・ 国木田独歩 「鹿狩り」
・・・ まだあの高慢狂気が治らない。梅子さんこそ可い面の皮だ、フン人を馬鹿にしておる」と薄暗い田甫道を辿りながら呟やいたが胸の中は余り穏でなかった。 五六日経つと大津定二郎は黒田の娘と結婚の約が成ったという噂が立った。これを聞いた者の多くは首・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
出典:青空文庫