・・・今までは処々に捩れて垂れて居て、泥などで汚れて居た毛が綺麗になって、玻璃のように光って来た。この頃は別荘を離れて、街道へ出て見ても、誰も冷かすものはない。ましてや石を投げつけようとするものもない。 しかし犬が気持ちよく思うのはこの時もた・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・が、それはとにかく――東京の小県へこの来書の趣は、婦人が受辱、胎蔵の玻璃を粉砕して、汚血を猟色の墳墓に、たたき返したと思われぬでもない。昭和八年一月 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・地面はなにか玻璃を張ったような透明で、自分は軽い眩暈を感じる。「あれはどこへ歩いてゆくのだろう」と漠とした不安が自分に起りはじめた。…… 路に沿うた竹藪の前の小溝へは銭湯で落す湯が流れて来ている。湯気が屏風のように立騰っていて匂・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・卓あり、粗末なる椅子二個を備え、主と客とをまてり、玻璃製の水瓶とコップとは雪白なる被布の上に置かる。二郎は手早くコップに水を注ぎて一口に飲み干し、身を椅子に投ぐるや、貞二と叫びぬ。 声高く応してここに駆け来る男は、色黒く骨たくましき若者・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・自分は南向きの窓の下で玻璃越しの日光を避けながら、ソンネットの二、三編も読んだか。そして“Line Composed a few miles above Tintern Abbey”の雄編に移った。この詩の意味は大略左のごとくである。・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・炭素がその玻璃板の間から流れると、蝋燭の火は水を注ぎ掛けられたように消えた。 高瀬は戸口に立って眺めていた。 無邪気な学生等は学士の机の周囲に集って、口を開くやら眼を円くするやらした。学士がそのコップの中へ鳥か鼠を入れると直ぐに死ぬ・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・一女をもうけ、玻璃子と名づけた。パリイを、もじったものらしい。惣兵衛氏は、ハイカラな人である。背の高い、堂々たる美男である。いつも、にこにこ笑っている。いい洋画を、たくさん持っている。ドガの競馬の画が、その中でも一ばん自慢のものらしい。けれ・・・ 太宰治 「水仙」
・・・雨と晴れとの中にありて雲と共に東へ/\と行くなれば、ふるかと思えば晴れ晴るゝかと思えばまた大粒の雨玻璃窓を斜に打つ変幻極まりなき面白さに思わず窓縁をたたいて妙と呼ぶ。車の音に消されて他人に聞えざりしこそ仕合せなりける。 大井川の水涸れ/・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・穹窿の如き蒼天は一大玻璃器である。熾烈な日光が之を熱して更に熱する時、冷却せる雨水の注射に因って、一大破裂を来たしたかと想う雷鳴は、ぱりぱりと乾燥した音響を無辺際に伝いて、軈て其玻璃器の大破片が落下したかと思われる音響が、ずしんと大地をゆる・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・「無の中か、有の中か、玻璃瓶の中か」とウィリアムが蘇がえれる人の様に答える。彼の眼はまだ盾を離れぬ。 女は歌い出す。「以太利亜の、以太利亜の海紫に夜明けたり」「広い海がほのぼのとあけて、……橙色の日が浪から出る」とウィリアムが云・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
出典:青空文庫