・・・ 男は、珍しい品が見つかると、心の中では飛びたつほどにうれしがりましたが、けっしてそのことを顔色には現しませんでした。かえって、口先では、「こんなものは、いくらもある、つまらない石じゃないか。」といって、くさしたのです。 店のも・・・ 小川未明 「宝石商」
・・・ 栗本は、進撃の命令を下した者に明かな反感を現して呶鳴った。 が、誰れも、何も云わなかった。 兵士達はロシア人をめがけて射撃した。 大隊長とその附近にいた将校達は、丘の上に立ちながら、カーキ色の軍服を着け、同じ色の軍帽を・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・と自分の思わくとお浪の思わくとの異っているのを悲む色を面に現しつつ、正直にしかも剛情に云った。その面貌はまるで小児らしいところの無い、大人びきった寂びきったものであった。 お浪はこの自己を恃む心のみ強い言を聞いて、驚いて目を瞠って、・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・ 問を掛けた生徒は、つと教室を離れて、窓の外の桃の樹の側に姿を顕した。「ア、虫を取りに行った」 と窓の方を見る生徒もある。庭に出た青年は桜の枝の蔭を尋ね廻っていたが、間もなく戻って来て、捕えたものを学士に勧めた。「蜂ですか」・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・やや後れて少年佐伯が食堂の入口に姿を現したと思うと、いきなり、私のほうに風呂敷包みを投げつけ、身を飜して逃げた。私は立ち上って食堂から飛び出し、二、三歩追って、すぐに佐伯の左腕をとらえた。そのまま、ずるずる引きずって食堂へはいった。こんな奴・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・無理の圧迫が劇しい時には弱虫の本性を現してすぐ泣き出すが、負けぬ魂だけは弱い体躯を駆って軍人党と挌闘をやらせた。意気地なく泣きながらも死力を出して、何処でも手当り次第に引っかき噛みつくのであった。喧嘩を慰みと思っている軍人党と、一生懸命の弱・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・芸術的洗練を経たる空想家の心にのみ味わるべき、言語にいい現し得ぬ複雑豊富なる美感の満足ではないか。しかもそれは軽く淡く快き半音下った mineur の調子のものである。珍々先生は芸者上りのお妾の夕化粧をば、つまり生きて物いう浮世絵と見て楽し・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・長唄の趣味は一中清元などに含まれていない江戸気質の他の一面を現したものであろう。拍子はいくら早く手はいくら細くても真直で単調で、極めて執着に乏しく情緒の粘って纏綿たる処が少い。しかしその軽快鮮明なる事は俗曲と称する日本近代の音楽中この長唄に・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・日本は永久自分の住む処、日本語は永久自分の感情を自由にいい現してくれるものだと信じて疑わなかった。 自分は今、髯をはやし、洋服を着ている。電気鉄道に乗って、鉄で出来た永代橋を渡るのだ。時代の激変をどうして感ぜずにいられよう。 夕陽は・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・――今日はそう云う条件の下にここに出現した訳であります。けれども不幸にしてあまり御覧に入れるほどな顔でもない。顔だけではあまり軽少と思いますからついでに何か御話を致しましょう。もとより演説と名のつく諸君よ諸君はとてもできませんから演説と云っ・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
出典:青空文庫