・・・いやされるということさえもかえって淋しいことなのだが、しかし一生ただ一回の失った恋の思い出だけに生きるということは、人間の浪曼性くらいではまずないことだ。 摂理は別の恋愛を恵むものだ。そして今度は幸福にいく場合が多い。恋を失っても絶望す・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・倉皇として奔命し、迫害の中に、飢えと孤独を忍び、しかも真理のとげ難き嘆きと、共存同悲の愍みの愛のために哭きつつ一生を生きるのである。「日蓮は涙流さぬ日はなし」と彼はいった。 日蓮は日本の高僧中最も日本的性格を持ったそれである。彼において・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ 朝鮮人だって、生きる権利は持っている筈だ!」そう云っているように見えた。 兵卒は、水を打ったようにシンとなって、老人の両側に立った。彼等の眼は悉く将校の軍刀の柄に向けられた。 軍刀が引きぬかれ、老人の背後に高く振りかざされた。形而・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・日の映った寝床の上に器械のように投出して、生きる望みもなく震えていた足だ…… その足で、比佐は漸くこの仙台へ辿り着いた。宿屋の娘にそれを言われるまでは実は彼自身にも気が着かなかった。 ここへ来て比佐は初めて月給らしい月給にもありつい・・・ 島崎藤村 「足袋」
・・・同情する自分と同情される他者との矛盾が、死ぬか生きるかの境まで来ると、そろそろ本体を暴露して来はしないか。まず多くの場合に自分が生きる。よっぽど濃密の関係で自分と他者と転倒しているくらいの場合に、いわば病的に自分が死ぬる。または極局身後の不・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・死ぬ前には生きるという事があるんだから」 で鳩はまた百姓の言ったかわいそうな奥さんが夏を過ごしている、大きないなかの住宅にとんで行きました。その時奥さんは縁側に出て手ミシンで縫物をしていました。顔は百合の花のような血の気のない顔、頭の毛・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・私たち、これより他に生きるみちがなくなっている。いまは、そんなに笑っていても、いつの日にか君は、思い当る。あとは、敗北の奴隷か、死滅か、どちらかである。 言い落した。これは、観念である。心構えである。日常坐臥は十分、聡明に用心深く為すべ・・・ 太宰治 「一日の労苦」
・・・生き残ったやつは、つよく生きるんだぞ。」 嘉七は、催眠剤だけでは、なかなか死ねないことを知っていた。そっと自分のからだを崖のふちまで移動させて、兵古帯をほどき、首に巻きつけ、その端を桑に似た幹にしばり、眠ると同時に崖から滑り落ちて、そう・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・ ジャングルの住民は虎でも蛇でもなんでもみんな生きるために生まれて来ているはずである。ところが、それが生きるために互いにけんかをして互いに殺し合う。勝ったほうは生きるが負かされた相手は殺される。そうして、その時には勝ったほう殺したほうも・・・ 寺田寅彦 「映画「マルガ」に現われた動物の闘争」
・・・思うにわれわれの遠い祖先が山林の中をさまよい歩いて、生きるために天然とたたかっていたころから、人間はだんだんにうぐいすに教育されて来たものと思われる。うぐいすの鳴くころになると、山野は緑におおわれ、いろいろの木の実、草の実がみのり、肌を刺す・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
出典:青空文庫