この話の主人公は忍野半三郎と言う男である。生憎大した男ではない。北京の三菱に勤めている三十前後の会社員である。半三郎は商科大学を卒業した後、二月目に北京へ来ることになった。同僚や上役の評判は格別善いと言うほどではない。しか・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・けれども生憎その声も絶え間のない浪の音のためにはっきり僕の耳へはいらなかった。「どうしたんだ?」 僕のこう尋ねた時にはMはもう湯帷子を引っかけ、僕の隣に腰を下ろしていた。「何、水母にやられたんだ。」 海にはこの数日来、俄に水・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・丁度、春さきの暖い晩でございましたが、生憎の暗で、相手の男の顔も見えなければ、着ている物などは、猶の事わかりませぬ。ただ、ふり離そうとする拍子に、手が向うの口髭にさわりました。いやはや、とんだ時が、満願の夜に当ったものでございます。「そ・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・が、どう云う顔をしたか、生憎もう今では忘れている。いや、当時もそんなことは見定める余裕を持たなかったのであろう。彼は「しまった」と思うが早いか、たちまち耳の火照り出すのを感じた。けれどもこれだけは覚えている。――お嬢さんも彼に会釈をした! ・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・彼れは憤りにぶるぶる震えていた。生憎女の来ようがおそかった。怒った彼れには我慢が出来きらなかった。女の小屋に荒れこむ勢で立上ると彼れは白昼大道を行くような足どりで、藪道をぐんぐん歩いて行った。ふとある疎藪の所で彼れは野獣の敏感さを以て物のけ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・もみじのような手を胸に、弥生の花も見ずに過ぎ、若葉の風のたよりにも艪の声にのみ耳を澄ませば、生憎待たぬ時鳥。鯨の冬の凄じさは、逆巻き寄する海の牙に、涙に氷る枕を砕いて、泣く児を揺るは暴風雨ならずや。 母は腕のなゆる時、父は沖なる暗夜の船・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・「それはお生憎様でござりまするな。」 何が生憎。「私の聞きたいのは、ここに小川の温泉と云うのがあるッて、その事なんだがどうだね。」「ええ、ござりますとも、人足も通いませぬ山の中で、雪の降る時白鷺が一羽、疵所を浸しておりました・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・を出るが最後、個々の行動を取って進めという命令が、敵に悟られん様に、聨隊長からひそかに、口渡しで、僕等に伝えられ、僕等は今更電気に打たれた様に顫たんやが、その日の午後七時頃、いざと一同川を飛び出すと、生憎諸方から赤い尾を曳いて光弾があがり、・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・すると生憎運動に出られたというので、仕方がなしに門を出ようとすると、入れ違いに門を入ろうとして帰り掛ける私を見て、垣に寄添って躊躇している着流しの二人連れがあった。一人はデップリした下脹れの紳士で、一人はゲッソリ頬のこけた学生風であった。容・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・ 小田原へ引越してから一度上京したついでに尋ねてくれた。生憎留守で会わなかったので、手紙を送ると直ぐ遣したのが次の手紙で、それぎり往復は絶えてしまった。緑雨の手紙は大抵散逸したが、不思議にこの一本だけが残ってるから爰に掲げて緑雨を偲ぶた・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
出典:青空文庫