・・・銀行へ預ける身分になりたいとは女房の生涯の願いだったが、遂に銀行の通帳も見ずに死んでしまったよ」「ふーん」 私は半信半疑だったが、「――二千円で何を買ったんだ」「煙草だ」「見たところよく吸うようだが、日に何本吸うんだ」・・・ 織田作之助 「鬼」
・・・ 不憫な子よ、お前の三十五年の生涯だって結局闇から闇に彷徨していたにすぎないんだが、私の年まで活き延びたって、やっぱし同じことで、闇から闇に消えるまでのことだ。妄想未練を棄てて一直線に私のところへ来い。その醜態は何事だ!」父は暗い空の上から・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・ 如何でしょう、以上ザッと話しました僕の今日までの生涯の経過を考がえて見て、僕の心持になって貰いたいものです。これが唯だ源因結果の理法に過ないと数学の式に対するような冷かな心持で居られるものでしょうか。生の母は父の仇です、最愛の妻は兄妹・・・ 国木田独歩 「運命論者」
・・・日蓮は父母の恩、師の恩と並べて、国土の恩を一生涯実に感謝していた。これは一見封建的の古い思想のように見えるが決してそうでない。最近の運命共同体の思想はこれを新たに見直してきたのである。国土というものに対して活きた関心を持たぬのは、これまでの・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ 慶応年間に村で生れた親爺は、一生涯麦飯を食って、栄養不良になることも、早く年を取り、もうろくすることもかまわずに、たゞ、いくらかの土地を自分のものとし、財産を作って、子供に残してやろうと、そればかりを考えていた。 死ぬ前には、親爺・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・その生涯が満足な幸福な生涯ならば、むろん、長いほどよいのである。かつ大きな人格の光を千載にはなち、偉大なる事業の沢を万人にこうむらすにいたるには、長年月を要することが多いのは、いうまでもない。 伊能忠敬は、五十歳から当時三十余歳の高橋作・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・破船――というより外に自分の生涯を譬える言葉は見当らない。それがこの山の上の港へ漂い着いて、世離れた測候所の技手をして、雲の形を眺めて暮す身になろうなどとは、実に自分ながら思いもよらない変遷なのである。 こう思い耽って居ると、誰か表の方・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・手を離れて、専門教育に入るまでの間、すべてみずから世波と闘わざるを得ない境遇にいて、それから学窓の三四年が思いきった貧書生、学窓を出てからが生活難と世路難という順序であるから、切に人生を想う機縁のない生涯でもない。しかもなおこれらのものが真・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・この男等の生涯も単調な、疲労勝な労働、欲しいものがあっても得られない苦、物に反抗するような感情に富んでいるばかりで、気楽に休む時間や、面白く暮す時間は少ないのであるが、この生涯にもやはり目的がないことはあるまいと思われるのである。 この・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・私のこれまでの生涯に於て、日本の作家に天才を実感させられたのは、あとにも先にも、たったこの一度だけであった。「おれは、勉強しだいでは、谷崎潤一郎には成れるけれども、井伏鱒二には成れない。」 私は、阿佐ヶ谷のピノチオという支那料理店で・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
出典:青空文庫