・・・我々は露柴を中にしながら、腥い月明りの吹かれる通りを、日本橋の方へ歩いて行った。 露柴は生っ粋の江戸っ児だった。曾祖父は蜀山や文晁と交遊の厚かった人である。家も河岸の丸清と云えば、あの界隈では知らぬものはない。それを露柴はずっと前から、・・・ 芥川竜之介 「魚河岸」
・・・何か腥い塊がおれの口へこみ上げて来る。が、苦しみは少しもない。ただ胸が冷たくなると、一層あたりがしんとしてしまった。ああ、何と云う静かさだろう。この山陰の藪の空には、小鳥一羽囀りに来ない。ただ杉や竹の杪に、寂しい日影が漂っている。日影が、―・・・ 芥川竜之介 「藪の中」
・・・ 彼れは妻に手伝わせて馬の皮を剥ぎ始めた。生臭い匂が小屋一杯になった。厚い舌をだらりと横に出した顔だけの皮を残して、馬はやがて裸身にされて藁の上に堅くなって横わった。白い腱と赤い肉とが無気味な縞となってそこに曝らされた。仁右衛門は皮を棒・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ この動物は、風の腥い夜に、空を飛んで人を襲うと聞いた……暴風雨の沖には、海坊主にも化るであろう。 逢魔ヶ時を、慌しく引き返して、旧来た橋へ乗る、と、 と鳴った。この橋はやや高いから、船に乗った心地して、まず意を安ん・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・ と、首を振ると、耳まで被さった毛が、ぶるぶると動いて……腥い。 しばらくすると、薄墨をもう一刷した、水田の際を、おっかな吃驚、といった形で、漁夫らが屈腰に引返した。手ぶらで、その手つきは、大石投魚を取返しそうな構えでない。鰌が居た・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・小児は争って買競って、手の腥いのを厭いなく、参詣群集の隙を見ては、シュッ。「打上げ!」「流星!」 と花火に擬て、縦横や十文字。 いや、隙どころか、件の杢若をば侮って、その蜘蛛の巣の店を打った。 白玉の露はこれである。・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・……称名の中から、じりじりと脂肪の煮える響がして、腥いのが、むらむらと来た。 この臭気が、偶と、あの黒表紙に肖然だと思った。 とそれならぬ、姉様が、山賊の手に松葉燻しの、乱るる、揺めく、黒髪までが目前にちらつく。 織次は激くいっ・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・「いや、とけておちたには違いはありませんがね――三島女郎衆の化粧の水などという、はじめから、そんな腥い話の出よう筈はありません。さきの御仁体でも知れます。もうずッと精進で。……さて、あれほどの竹の、竹の子はどんなだろう。食べたら古今の珍・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
・・・ 坂を降りて北へ折れると、市場で、日覆を屋根の下にたぐり寄せた生臭い匂いのする軒先で、もう店をしもうたらしい若者が、猿股一つの裸に鈍い軒灯の光をあびながら将棋をしていましたが、浜子を見ると、どこ行きでンねンと声を掛けました。すると、浜子・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・日本橋一丁目で降りて、野良犬や拾い屋が芥箱をあさっているほかに人通りもなく、静まりかえった中にただ魚の生臭い臭気が漂うている黒門市場の中を通り、路地へはいるとプンプン良い香いがした。 山椒昆布を煮る香いで、思い切り上等の昆布を五分四角ぐ・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
出典:青空文庫