・・・しかし実際は部屋の外に、もう一人戸の鍵穴から、覗いている男があったのです。それは一体誰でしょうか?――言うまでもなく、書生の遠藤です。 遠藤は妙子の手紙を見てから、一時は往来に立ったなり、夜明けを待とうかとも思いました。が、お嬢さんの身・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・ その時Mが遥かむこうから一人の若い男の袖を引ぱってこっちに走って来ました。私はそれを見ると何もかも忘れてそっちの方に駈け出しました。若い男というのは、土地の者ではありましょうが、漁夫とも見えないような通りがかりの人で、肩に何か担ってい・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・その容色がある男性的の感じを起すのである。あの鼠色の寐惚けたような目を見ては、今起きて出た、くちゃくちゃになった寝牀を想い浮べずにはいられない。あのジャケツの胸を見ては、あの下に乳房がどんな輪廓をしているということに思い及ばずにはいられない・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・この寂しい処で、人を怖れる心と、人を憎む心とを養うより外はない。 たった一度人が彼に憫みを垂れたことがある。それは百姓で、酒屋から家に帰りかかった酔漢であった。この男は目にかかる物を何でも可哀がって、憐れで、ああ人間というものは善いもの・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・B 相不変厭な男だなあ、君は。A 厭な男さ。おれもそう思ってる。B 君は何日か――あれは去年かな――おれと一緒に行って淫売屋から逃げ出した時もそんなことを言った。A そうだったかね。B 君はきっと早く死ぬ。もう少し気を広・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
昔男と聞く時は、今も床しき道中姿。その物語に題は通えど、これは東の銭なしが、一年思いたつよしして、参宮を志し、霞とともに立出でて、いそじあまりを三河国、そのから衣、ささおりの、安弁当の鰯の名に、紫はありながら、杜若には似も・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・それゃ男の方は子がないとて平気でいられましょうけれど、女はそうはゆきませんよ」「あなたはそんなことでいまだに気もみをしているのですか。河村さんはあんな結構人ですもの、心配することはないじゃありませんか」「あなたのご承知のとおりで、里・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・此の娘は聟えらびの条件には、男がよくて姑がなくて同じ宗の法華で綺麗な商ばいの家へ行きたいと云って居る。千軒もあるのぞみ手を見定め聞定めした上でえりにえりにえらんだ呉服屋にやったので世間の人々は「両方とも身代も同じほどだし馬は馬づれと云う通り・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・気がつかずにいたが、毎度風呂の中で出くわす男で、石鹸を女湯の方から貰って使うのがあって、僕はいつも厭な、にやけた奴だと思っていた。それが一度向うからあまり女らしくもない手が出て、「旦那、しゃぼん」という声が聴えると、てッきり吉弥の声であ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・その分家のやはり内田という農家に三人の男の子が生れた。総領は児供の時から胆略があって、草深い田舎で田の草を取って老朽ちる器でなかったから、これも早くから一癖あった季の弟の米三郎と二人して江戸へ乗出し、小石川は伝通院前の伊勢長といえばその頃の・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
出典:青空文庫