・・・医者の不養生というほどでもなかったろうが、平生頑健な上に右眼を失ってもさして不自由しなかったので、一つはその頃は碌な町医者がなかったからであろう、碌な手当もしないで棄て置いたらしい。が、不自由しなかったという条、折には眼が翳んだり曇ったりし・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・かり覚えこんでしまったある雨の日、急に丹造の野心はもくもくと動きだして、よし、おれも一番記者になって……と、雨に敲かれた眼にきっと光を見せたが、しかし、お抱え俥夫から一足飛びに記者になろうというのは、町医者づきの俥夫が医者になろうというのと・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・樽崎という京の町医者の娘だったが、樽崎の死後路頭に迷っていたのを世話をした人に連れられて風呂敷包みに五合の米入れてやった時、年はときけば、はい十二どすと答えた声がびっくりするほど美しかった。 伊助の浄瑠璃はお光が去ってからきゅうに上・・・ 織田作之助 「螢」
・・・金光教に凝って、お水をいただいたりしているうちに、衰弱がはげしくて、寝付いた時はもう助からぬ状態だと町医者は診た。手術をするにも、この体ではと医者は気の毒がったが、お辰の方から手術もいや、入院もいやと断った。金のこともあった。注射もはじめは・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・のちには、その気の弱い町医者に無理矢理、証明書を書かせて、町の薬屋から直接に薬品を購入した。気が附くと、私は陰惨な中毒患者になっていた。たちまち、金につまった。私は、その頃、毎月九十円の生活費を、長兄から貰っていた。それ以上の臨時の入費に就・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・第一房の鉄扉があけ放され、その外では主任、特高、部長、看守が首をのばして内をのぞいているところへ、入るべき場所でないところへ入ったと云う風な表情と恰好をして中年の町医者が及び腰で出て来るところである。うしろの方に佇んでいる自分に看守が、・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・作者は、允子を嘗て不正な町医者と正義心から闘った女として描いている。法律の制裁がこわいより、我心が許さないと堕胎をしなかった若い女として描いている。新聞の脱税事件、収賄事件に公憤を感じざるを得ない允子である。息子に真理を教えようとして、今日・・・ 宮本百合子 「山本有三氏の境地」
出典:青空文庫