・・・そういえば君は、「何が平気なもんか、万里異境にある旅情のさびしさは君にはわからぬ」などいうだろうけれど、僕から見ればよくよくやむを得ぬという事情があるでもなく、二年も三年も妻子を郷国に置いて海外に悠遊し、旅情のさびしみなどはむしろ一種の興味・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・と、僕の妻は最終の責任を感じて、異境の空に独りぼっちの寂しさをおぼえた。僕は、出発の当時、井筒屋の主人に、すぐ、僕が出直して来なければ、電報で送金すると言っておいたのだ。 先刻から、正ちゃんもいなくなっていたが、それがうちへ駆けつけて来・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・心境小説的私小説の過不足なき描写をノスタルジアとしなければならぬくらい、われわれは日本の伝統小説を遠くはなれて近代小説の異境に、さまよいすぎたとでもいうのか。日記や随筆と変らぬ新人の作品が、その素直さを買われて小説として文壇に通用し、豊田正・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・その姉のさびしい生涯を想えば、もはや月並みな若い娘らしい幸福に甘んずることは許されず、姉の一生を吹き渡った孤独な冬の風に自分もまた吹雪と共に吹かれて行こうという道子にとっては、自分の若さや青春を捨てて異境に働き、異境に死ぬよりほかに、姉に報・・・ 織田作之助 「旅への誘い」
・・・それが精神生活、たましいの異境というものだ。 燃えるような恋をして、洗われる芋のように苦労して、しかも笛と琴とのように調和して、そしてしまいには、松に風の沿うように静かになる。それが恋愛の理想である。 ダンテを徳に導いた淑女ベアトリ・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・脱我の立場において異境の風物が語られるとき、我々はしばしば驚異すべき観察に接する。人間を取り巻く植物、家、道具、衣服等々の細かな形態が、深い人生の表現としての巨大な意義を、突如として我々に示してくれる。風物記はそのままに人間性の表現の解釈と・・・ 和辻哲郎 「『青丘雑記』を読む」
出典:青空文庫