・・・この国の歴史に疎い彼には、折角の相手の雄弁も、半分はわからずにしまったのだった。「支那の哲人たちの後に来たのは、印度の王子悉達多です。――」 老人は言葉を続けながら、径ばたの薔薇の花をむしると、嬉しそうにその匂を嗅いだ。が、薔薇はむ・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・翁には主人が徹頭徹尾、鑑識に疎いのを隠したさに、胡乱の言を並べるとしか、受け取れなかったからなのです。 翁はそれからしばらくの後、この廃宅同様な張氏の家を辞しました。 が、どうしても忘れられないのは、あの眼も覚めるような秋山図です。・・・ 芥川竜之介 「秋山図」
・・・何処までも謹恪で細心な、そのくせ商売人らしい打算に疎い父の性格が、あまりに痛々しく生粋の商人の前にさらけ出されようとするのが剣呑にも気の毒にも思われた。 しかし父はその持ち前の熱心と粘り気とを武器にしてひた押しに押して行った。さすがに商・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ やにわに長い手を伸ばされて、はっと後しざりをする、娘の駒下駄、靴やら冷飯やら、つい目が疎いかして見分けも無い、退く端の褄を、ぐいと引いて、「御夢想のお灸であすソ、施行じゃいの。」 と鯰が這うように黒被布の背を乗出して、じりじり・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・おどしと見て差支ない、原来趣味多き人には著述などないが当前であるかも知れぬ、芭蕉蕪村などあれだけの人でも殆ど著述がない、書物など書いた人は、如何にも物の解った様に、うまいことをいうて居るが、其実趣味に疎いが常である、学者に物の解った人のない・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・あたりを片付け鉄瓶に湯も沸らせ、火鉢も拭いてしまいたる女房おとま、片膝立てながら疎い歯の黄楊の櫛で邪見に頸足のそそけを掻き憮でている。両袖まくれてさすがに肉付の悪からぬ二の腕まで見ゆ。髪はこの手合にお定まりのようなお手製の櫛巻なれど、身だし・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・もとは、笠井さんも、そのような調査の記録を、写実の数字を、極端に軽蔑して、花の名、鳥の名、樹木の名をさえ俗事と見なして、てんで無関心、うわのそらで、謂わば、ひたすらにプラトニックであって、よろずに疎いおのれの姿をひそかに愛し、高尚なことでは・・・ 太宰治 「八十八夜」
・・・あえて短い日子ではなかったが、こう云う事には極めて疎い自分にはこの家の家庭の過去現在について知り得られた事は至って僅かで、また強いて知りたいと思いもしなかった。が、主婦が新潟の人である事、主人はもとは士族で先妻に子まであった事、そして先妻が・・・ 寺田寅彦 「雪ちゃん」
・・・ お絹は指ざしして教えてくれたけれど、疎い道太の目には入りかねた。 肌でもぬぎたいほど蒸し暑い日だったので、冬の衣裳をつけた役者はみな茹りきっていた。「勧進帳なんかむりだもんね。舞台も狭いし、ここじゃやはり腕達者な二三流どこの役・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・その方面の知識に疎い寡聞なる余の頭にさえ、この断見を否定すべき材料は充分あると思う。 社会は今まで科学界をただ漫然と暗く眺めていた。そうしてその科学界を組織する学者の研究と発見とに対しては、その比較的価値所か、全く自家の着衣喫飯と交渉の・・・ 夏目漱石 「学者と名誉」
出典:青空文庫